60歳で住宅ローンを完済する。多くの人が思い描く理想的なライフプランの一つでしょう。しかし、長年の重荷から解放された安堵感も束の間、思いもよらない形で新たな経済的負担がのしかかるケースは少なくありません。定年退職を機に訪れる「想定外」の事態とは、一体どのようなものなのでしょうか。

ローン返済がゴールじゃなかった

「ようやく終わりました。本当に長かった」

会社員の田中健一さん(60歳・仮名)。銀行から届いた「抵当権抹消手続きのお知らせ」の封筒。妻の良子さん(60歳・仮名)とともに、震える手で契約書にサインしてから、本当に長い道のりでした。

「あなた、お疲れ様。本当によく頑張ったわね」

そう言って健一さんの肩を叩くと、目にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えました。

月収がまだ30万円程度だったときに、郊外の戸建てを購入。ちょうど長男が生まれるタイミングで、隣近所を気にすることなく子育てがしたいという二人の思いから、マイホームの決断をしました。4,000万円の借り入れで、月々12万円の返済。定年退職直前、健一さんの月収が45万円だった現役時代も、返済負担は決して楽なものではありませんでした。子どもの教育費がかさむ時期は、良子さんがパートの時間を増やして必死に家計を支えたのです。

「ローンの支払いが終わったんだ。これからは少しは贅沢できるかな

そう言って笑う健一さんの顔は、達成感に満ち溢れていました。良子さんも、これでやっと肩の荷が下りる、そう信じて疑いませんでした。60歳、定年退職と同時に住宅ローンが終わる。これ以上ない、完璧な人生設計でした。しかし、その安堵感は長くは続きませんでした。

健一さんは定年後、同じ会社に再雇用されたものの、正社員から嘱託社員へ。給料は現役時代の半分程度の月25万円ほどになりました。良子さんのパート代8万円と合わせても、世帯収入は手取りで月27万円ほど。現役時代と比べると、15万円も減ってしまったことになります。

「まあ、ローンがなくなったんだから、十分やっていけるだろう」

健一さんは楽観的でした。しかし、良子さんは本当に大丈夫か……不安になっていました。

定年後の大幅な収入減は、健一さんだけの特別な話ではありません。定年後の雇用形態は、大きく分けて「再雇用制度」と「勤務延長制度」の2つ。再雇用制度は、定年退職後に改めて雇用契約を結び直す制度で、雇用形態や労働条件は定年前と異なる場合がほとんど。多くは正社員から契約社員や嘱託社員に変わります。一方、勤務延長制度は、定年前の雇用形態や労働条件を維持したまま、勤務を延長する制度。多くの企業で再雇用制度を採用し、定年を機に雇用形態が変わるのが一般的です。

厚生労働省令和6年 賃金構造基本統計調査』によると、50代後半の正社員(男性)の平均給与は月収で45.9万円。一方、60代前半・正社員以外(男性)の平均給与は29.8万円。月収で35%減。また、正社員よりも賞与が減ることで年収にすると40%減となります。さらに定年と同時に役職もなくなると、役職手当ももらえなくなるので、さらに減少幅は大きくなり、定年を機に5~7割減というのも珍しいことではありません。

こんなはずでは…「収入減」と「想定以上の支出」に仰天

定年と同時にローン完済。一方で給与は大幅減となった健一さん。ただ月収減に近いローン返済があったことを考えると、特段、不安に思うことはないように思えました。しかし、購入から30年が経過したマイホームは、あちらこちらにガタがきていました。

ある日、雨漏りをしているのを発見し、詳しく点検してもらったら、さまざまな不具合がでるわでるわ――まずは屋根や外壁の劣化。これが雨漏りの原因でした。さらに基礎をみてみると、ひび割れに腐食。給排水管や電気配線の老朽化で漏水や漏電の心配も。キッチン、浴室、トイレといった水回りも劣化が激しく、床下には一面カビが……もちろん、最低限のメンテナンスをして住み続けることもできますが、「都度対応したほうが、最終的に高くつきますよ」とアドバイスを受けました。

「この先、住み続けることを考えると、バリアフリー住宅の大幅リフォーム、または建て替えを検討してみてはどうでしょうか」

ローンを払い終えたばかりなのに……何とも不穏な響きです。試しに見積りをお願いすると、全面リフォームで1,000万円、建て替えとなると最低限1,500万円。「なんと、こんなにかかるのか!」と、見積りをもらったとき、思わず声が出てしまいました。

老後を見据えて準備してきた貯蓄は1,500万円ほど。そこに定年退職金が1,000万円ほどプラスされました。築30年のマイホーム問題。貯蓄2,500万円からドンと払ってしまうか、老後費用が大きく減ってしまうことを避けローンを活用するか……いずれにせよ、お金をかけないといけないことはわかっていますが、究極の二択、答えを出すのはなかなか難しそうです。

金融広報中央委員会『令和5年 家計の金融行動に関する世論調査[二人以上世帯調査]』によると、世帯主60代世帯において「借入金あり」は14.1%。その平均値は1,099万円で、中央値は300万円です。定年を迎えてから負債を抱えている人は7人に1人。このなかには、リフォーム・建て替えで新たに負債を抱える人もいるでしょう。

良子さんは、半年前の家計簿を開きました。そこには夫の給料として「45万円」という、今となっては眩しすぎる数字が書き込まれています。あのころはローンの支払いに追われながらも、収入がある分、まだ心に余裕がありました。

「……涙が出そうです」

思わず、心の声が漏れました。果たして、田中夫婦の選択は?

「老後資金が大きく減ってしまうのは怖かった。利子がかかるのは少々痛いですが、日々の安心のために、ローンを活用することにしました」

[参考資料]

金融広報中央委員会『令和5年 家計の金融行動に関する世論調査[二人以上世帯調査]』

(※写真はイメージです/PIXTA)