長年の会社員生活を終え、多額の退職金とともに始まるスローライフ。それは多くの人にとって理想の未来でしょう。しかし、その資金管理を一歩間違えると、夢の生活は脆くも崩れ去ります。「自分だけは大丈夫」という過信が、なぜ「まさか」の事態を招いてしまったのか――。

早期退職で手にした「夢のセカンドライフ」

田中健一さん(58歳・仮名)は、机の上に置かれた「早期退職者優遇制度のご案内」という書類を、何度も読み返していました。中堅の機械メーカーに新卒で入社し、がむしゃらに働いて36年。大きな不満はなかったものの、ここ数年は会社の将来性や自身の体力に漠然とした不安を感じていました。

制度の条件は、勤続年数に応じた退職金に、基本給の3年分に相当する割増金を上乗せするというもの。田中さんの場合、その額は実に3,500万円にも上りました。妻はすでに他界しており、一人娘も独立している今、この金額は第二の人生をスタートさせるには十分すぎるほどに思えました。

「これで、ようやく落ち着いた生活ができる」

長年夢見ていた、都会の喧騒から離れた場所での穏やかな暮らし。毎日、ぎゅうぎゅうの満員電車に乗り込み、会社につくころにはすでに疲れ果てている――そのような生活からおさらばし、趣味の家庭菜園に没頭。天気の良い日には近くの川で釣り糸を垂らす、そんな「スローライフ」が、すぐそこまで来ているように感じられました。

今の家には妻との思い出が多すぎて、逆にここ(=自宅)で暮らすのもツラいと感じることがありました。家族との思い出は大事にしつつ、新たな一歩を踏み出したい、仕事を辞めたら田舎暮らしを始めたいと思っていました。

「よしっ!」

田中さんは、早期退職者優遇制度に手を挙げました。同僚からは驚きの声も上がりました。

「あと2年で定年だぞ。それからでも遅くないんじゃないか?」

しかし健一さんの決意は固いものでした。退職後、田中さんは計画通り千葉県房総に手頃な中古の一軒家を購入。思い描いていた通りの生活が始まりました。庭で採れた野菜で料理をし、近所の人々と談笑する。海も近いので、たまに朝から晩まで釣り糸を垂らし、採れたての魚をさばいて晩酌をする。時間に追われることのない日々は、この上なく幸福なものでした。手元に残った資金も2,000万円以上あり、老後の不安など微塵も感じていませんでした。

こうした早期退職の動きは、田中さんに限った話ではありません。東京商工リサーチの調査によると、2024年に早期・希望退職者を募集した上場企業は57社にのぼり、募集人数は1万人を超えました。景気の先行き不透明感や産業構造の変化を背景に、多くの企業が人員構成の最適化を急いでいる現実がうかがえます。サラリーマンにとっても、早期退職は人生の大きな選択肢のひとつになっているといえるでしょう。

甘い言葉に誘われた「投資」という名の罠

田舎での暮らしを始めて1年ほど経ったころ、その生活に小さな変化が生じます。きっかけは、旧友からの電話でした。「面白い投資話があるんだ。退職金で少しやらないか?」。最初は「自分には縁のない話だ」と断っていた田中さんでしたが、友人が語る「月利5%」という言葉に、心が揺らぎました。

インターネットで検索してみると、「初心者でも安心」「AIが自動で資産運用」といった甘い言葉が並ぶ投資案件が、次から次へと表示されます。そのどれもが、銀行預金の金利とは比べ物にならない高いリターンを約束していました。

「退職金の一部、ほんの少しだけなら……」

最初は慎重に、50万円から始めました。すると、ビギナーズラックか、1ヵ月後には口座の残高が数万円増えていたのです。これに気を良くした田中さんは、あっさりと「投資」の魅力に取り憑かれてしまいました。ネットで見つけた海外の不動産投資や、FXの自動売買ツール。気づけば、投資額は数百万円に膨れ上がっていました。

しかし、そんな幸運が長く続くはずもありません。ある日、利用していたFX業者のサイトが閉鎖。友人から紹介された海外不動産投資も、実際には価値のない物件だったことが判明します。慌てて資金を引き出そうとしましたが、時すでに遅し。投じた資金のほとんどが、泡と消えてしまったのです。

「60代になったばかりなのに、これしかお金がなくて、この先、生きていけるのだろうか……」

そんな不安から再就職先を探し始めるまでに、そう時間はかかりませんでした。何とか仕事を見つけたものの、勤務先は東京。このまま田舎暮らしを継続させることは難しく、東京で月7万円のワンルームマンションを借り、毎日、満員電車に乗る生活をスタートさせました。

金融庁『金融サービス利用者相談室における相談等の受付状況等』によると、2025年1~3月、詐欺的な投資勧誘に関する情報の受付は2,355件あり、そのうち、2,052件は被害あり。年齢別にみていくと、50代が最も多く、被害全体の16.7%。60代は全体の14.2%、70代以上が12.2%でした。被害に遭った4人に1人は60代以上の高齢者です。「元本保証」「高配当」などをうたい、退職金などのまとまった資金を狙う手口も横行しています。特に、インターネットやSNSを通じた非対面の勧誘は、相手の素性が分かりにくく、リスクが非常に高いといえます。田中さんのケースが詐欺だったのかはわかりませんが、「詐欺……だったのかもしれない」と、よく調べずに投資判断をしたことを悔やんでいます。

割増退職金を受け取ってから、わずか3年。田中さんの銀行口座の残高は、400万円を切っていました。

[参考資料]

株式会社東京商工リサーチ「2024年上場企業『早期・希望退職』実施状況」

金融庁『金融サービス利用者相談室における相談等の受付状況等』

(※写真はイメージです/PIXTA)