
家計の管理は、家庭ごとにさまざまな形があります。収入が多いからこそ見えにくくなるお金の流れや、家族間の信頼が思わぬ形で揺らぐことも。ふとしたきっかけで明らかになる家計の真実は、私たちに安心と責任のバランスについて考えさせてくれます。
〈年収1,200万円〉エリートサラリーマンを襲った「想定外の現実」
都内大企業で働く鈴木一郎さん(45歳・仮名)。年収は1,200万円。都心の高級賃貸マンションで、専業主婦の妻と、有名私立高校に通うひとり娘の明日香さん(18歳・仮名)の3人暮らしをしています。
「お金の心配はしなくていい。やりたいことをやりなさい」
一郎さんの口癖です。明日香さんは幼少の頃から、バレエやピアノ、英会話など、本人が望む習い事はすべてやらせてあげました。そのなかには長く続いたものもあれば、三日坊主で終わったものまでさまざま。しかし「さまざまな経験をして、自分で判断すること、できるようになることが大切」というモットーで、何でもやらせてあげていました。
そんな順風満帆に見えた鈴木家に、暗雲が垂れ込めたのは、明日香さんが高校生になり、本格的に大学受験を意識し始めた頃のことでした。明日香さんが第一志望として挙げたのは、都内の有名私立大学の医学部。幼い頃、病気がちだった祖母を支える医師の姿に感銘を受け、ずっと心に秘めてきた夢でした。
「パパ、私、医者になりたい」
そう目を輝かせて語る娘の姿に、一郎さんは「そうか、頑張れよ」と笑顔で応えました。しかし私立大学医学部の学費が想像を絶するほど高額であることを知っていた一郎さん、内心は穏やかではありません。
これまでも明日香さんの教育にはお金を惜しまず投資してきました。小学校から私立に通わせ、高校も学費の高い進学校です。塾や予備校の費用も相当なものでした。しかし、それらはあくまで想定の範囲内。私立大学医学部の6年間でかかる費用は、まさに桁違いの世界です。
日本政策金融公庫『令和3年度 教育費負担の実態調査』によると、高校入学から大学卒業までにかかる子ども1人あたりの教育費用は、平均で942.5万円に。進路別に見ると、私立文系で951.6万円、私立理系では1,083.4万円と、1,000前後の費用がかかることがわかります。
そして、これが私立大学の医歯薬系となると、金額はさらに跳ね上がります。文部科学省『令和5年度 私立大学入学者に係る初年度学生納付金等 平均額(定員1人当たり)の調査結果』によると、私立大学医学部の初年度納付額は平均507万9,434円。以降、入学金を除く金額が5年間かかるとすると1,860万円弱。6年間で余裕で2,000万円を超えることになります。
年収1,200万円の一郎さんでも、これはあまりにも重い負担。エリートサラリーマンの人生が、娘の大学進学という一大イベントを前に、大きく揺らぎ始めていました。
高所得者層を苦しめる「所得制限の壁」
「医学部だけが道じゃないだろう。他の学部も考えてみたらどうだ?」
ある晩、心の何処かで医学部を諦めてくれたら――そんな気持ちがあったことは否定しません。一郎さんがそう切り出すと、明日香さんの表情がみるみるうちに曇っていきました。そして、堰を切ったように泣きながらこう叫んだのです。
「どうしてそんなこと言うの! 医学部に行けないなら、もう大学なんて行かない! パパのせいで、私の人生めちゃくちゃよ!」
受験へのプレッシャーもあり、最近、情緒不安定なところもありましたが、想定外の娘の反応に、一郎さんは返す言葉が見当たりません。
年収が大台にのるエリートサラリーマンでも、子どもの大学進学はかなりのハードルです。その背景には、高所得者層ならではの事情がありました。
たとえば「高等教育の修学支援新制度」。2020年4月から始まった国の支援制度で返済不要の給付型奨学金と授業料・入学金の免除または減額により、大学、短期大学、高等専門学校、専門学校への進学を支援するもの。世帯年収約380万円程度までの世帯が主な対象で、現在、多子世帯(扶養する子が3人以上)を対象に、所得制限が撤廃される方向で検討されています。この制度、もちろん、高所得者は対象外です。
ほかにもさまざまな経済的な支援制度はありますが、その多くに所得制限が設けられ、高所得者は対象外となります。また奨学金なら貸与型という選択肢もありますが、医学部の場合、卒業までに1,000万円以上の借金を背負う可能性も。娘の人生のスタートに、大きな負債を抱えさせることへの抵抗感は、親として当然のものでしょう。
高年収世帯は、確かに収入は多いですが、その分、税金や社会保険料の負担も重くのしかかります。さらに、一郎さんのように都心に住み、高い生活水準を維持している場合、住居費や食費、交際費などの支出もかさみがちです。結果として、年収の額面ほど手元にお金が残らず、計画的に貯蓄を進めていなければ、いざという時にまとまった資金を準備できない、という事態も十分に考えられるのです。
仮にストレートで第1志望への大学に進学したとすると、教育費の呪縛から逃れることができるのは50代も中盤。娘の将来、さらには自分たちの将来のためにコツコツと進めてきた貯金は、娘の大学進学で底を突くのは確実です。
「娘が大学を卒業し、無事、夢を叶えるまでは、将来を見据えた資産形成は難しいですね……仕方がありません。親の責務です」
[参考資料]
日本政策金融公庫『令和3年度 教育費負担の実態調査』
文部科学省『令和5年度 私立大学入学者に係る初年度学生納付金等 平均額(定員1人当たり)の調査結果』

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