人生100年時代、定年後の「第二の人生」に挑戦する人が増えています。長年の経験や夢を胸に、新たな一歩を踏み出すシニア世代。しかし、情熱やこだわりだけでは解決できない現実の壁も存在します。

シニア起業…夢を追う「セカンドキャリア」

定年退職の日、田中一郎さん(60歳・仮名)の胸は高鳴っていた。食品系商社で38年間、営業一筋で勤め上げ、手にした退職金は3,000万円。こつこつと貯めてきた貯金も2,000万円。合計5,000万円。これで長年抱いてきた夢をかなえようと決めていました。

会社からは再雇用で残ってほしいと強く慰留されましたが、田中さんの決心は揺るぎませんでした。カレー店を開くという夢。仕事でスパイスを扱ってから、その奥深さに魅了されていきました。オリジナルのスパイスカレーは家族からも同僚からも好評で「絶対、お店を出せば絶対に流行る!」とお墨付きをもらっていました。

「もっとたくさんの人に俺のカレーを食べてもらいたい」

そう夢を抱くようになりました。そして妻の心配をよそに、第二の人生のスタートラインに立った田中さん。先には希望しかありませんでした。

田中さんのように定年後に新たな挑戦を始めるシニア世代。日本政策金融公庫『2023年度新規開業実態調査』によると、開業時の平均年齢は43.7歳、60歳以上の割合は6.1%。少数派ではありますが、定年後に長年の経験や夢をもとに、新たな一歩を踏み出している人たちがいます。

開業に際し、1,000万円の融資も受けられることになった田中さん。老後のためにと貯めてきた貯金は、できるだけ使いたくないと思っていただけに、ホッとひと息。都心から少し離れた、落ち着いた住宅街に手ごろな空き店舗を見つけました。内装はシンプルながらも、シックな木目調のデザインに。厨房設備も一切の妥協なく最新のものを揃えました。

友人や元同僚を招いたプレオープンでは、自慢のカレーは絶賛の嵐。

「こんなに美味しいカレーは食べたことがない」

「これは行列ができるぞ」

称賛の言葉を浴びるたびに、田中さんの自信は確信へと変わっていきました。

そして店の看板商品となる一番オーソドックスなスパイスカレーは1皿1,580円。立地を考えるとかなり強気の価格でしたが、それでも採算ギリギリ。とにかくこだわりの詰まったカレーだったのです。

甘い見通し…夢の実現に隠れた「落とし穴」

グランドオープンの日。開店祝いの花に囲まれ、店内は多くの客で賑わいました。幸先の良いスタートに田中さんは「夢が叶った」と実感したといいます。その後も客足は順調で、忙しい日々を送りました。しかし繁盛すればするほど、田中さんはピンチに追い込まれていったのです。

食材費の高騰。こだわりが強いため、なかなか安く代替の食材に変えることができません。さらにカレーには欠かせない米まで値上がり。客が入れば入るほど、こだわりのカレーを出せば出すほど、店の経営は苦しくなっていきました。

「値上げしないとムリだ」

こうして一気に800円の値上げ。すると客足が一気に遠のきました。1皿2,000円を超えるカレーは、住宅街の飲食店としては高すぎたようです。結局、店を開ければ開けるだけ赤字になる負のスパイラルからは脱却できず、開業1年を待たずに閉店。田中さんの挑戦は、借金だけが残る結果となったのです。

中小企業庁『中小企業白書』でも、廃業の理由として「販売不振」は常に上位に挙げられます。田中さんの店も、まさにその典型的なパターンに陥ってしまいました。

長年の経験を生かしたシニア起業。飲食店は人気の業種です。しかし失敗事例は後を絶ちません。もともと飲食店は3年で7割が閉店するといわれる厳しい世界。さらにシニア起業の場合、採算度外視で高価な食材や設備を導入し利益が出なかったり、自分の好みにこだわるあまり顧客ニーズから乖離してしまったりと、過度なこだわりが足かせになることも珍しくありません。豊富な経験がマイナスに作用してしまうわけです。

「うまいものを作っていれば飲食店は成功する――夢をみてしまったんですね。現実離れしていたのが敗因です」

失敗から1年。田中さんはまだ諦めていません。こだわりのカレーをどうしたら安く提供できるか――多くの人に美味しいカレーを食べてもらいたいという夢は、まだ終わっていないようです。

[参考資料]

日本政策金融公庫『2023年度新規開業実態調査』

中小企業庁『中小企業白書』

(※写真はイメージです/PIXTA)