
輝かしいキャリアの末に手に入れる多額の退職金。しかし、その先に待っていたのは穏やかなセカンドライフではなく、長年連れ添った妻からの突然の別れでした。「なぜ?」と疑問符で頭一杯になる夫。結婚20年を超え、熟年の域に入った夫婦に何が起きたのでしょうか?
「長男の嫁」という名の無給労働の果てに
田中正雄さん(60歳・仮名)は、万感の思いで最終出勤日を終えました。国家公務員として40年弱、邁進し、定年で手にした退職金は約5,000万円。昨年、一人暮らしをしていた母親を看取り、どこか肩の荷が下りたタイミングでの定年を迎えました。
「本当に、長い間お疲れ様。これからは夫婦でのんびりしよう」
食卓で、妻の優子さん(58歳・仮名)にそう声をかけた正雄さん。しかし、優子さんはどこかうわの空で、正雄さんの言葉は宙を舞っているかのようでした。その数日後、正雄さんの描いていた穏やかなセカンドライフは、一枚の紙によって粉々に砕け散ります。妻が静かに差し出したのは、署名と捺印が済んだ離婚届でした。
「これまで家族の生活を支えてくれて感謝しています。でも『田中家の嫁』として果たすべき役割はすべて終わったので……自由にさせてください」
何が起きているのか、正雄さんには到底理解できませんでした。「感謝しているのなら、なぜ離婚になるんだ」と食い下がっても、優子さんは「結婚して25年、あなたには、私の本当の気持ちはわかっていない」と繰り返すばかりでした。
家制度の意識が強い田中家。優子さんは結婚以来、さまざまなところで「長男の嫁なのだから」と言われ、その役目を押し付けられてきました。特にお盆や正月など、親戚一同が集まるタイミングは大忙しだったとか。そして、正雄さんの母親に介護が必要になってからは、さらに優子さんの生活は一変しました。義実家にほぼ住み込みで介護をしてきたのです。
正雄さんには弟が二人いますが、親戚一同の総意は「介護は長男の嫁がやるもの」。電話口で聞こえてくるのは「兄貴のところは専業主婦のお義姉さんがいるから助かるよ」「長男の嫁なんだから、しっかり看てあげて」という、無責任な言葉ばかり。夫である正雄さん自身も、仕事の多忙を理由に介護の負担を妻に押し付け、「大変だな、ありがとう。頼むな」と感謝の言葉を口にはするものの、具体的な行動で優子さんを助けることはほとんどありませんでした。
介護の負担が特定の家族、特に女性に偏るという現実は、統計にも表れています。総務省統計局『令和3年社会生活基本調査』で年齢別に介護・看護をしている人の割合をみていくと、統計上最高年齢となる「85歳以上」以外は、どの年代でも「介護をしている男性の割合」<「介護をしている女性の割合」となっていて、「35~39歳」では男性0.5%に対し、女性2.1%と4.2倍に。また60代前半では男性2.3%に対し、女性は6.9%と、男女で3倍の開きがあります。優子さんのように、「嫁」や「娘」という役割のなかで、自身の時間やキャリア、そして心をすり減らしている人は少なくないのです。
退職金5,000万円では埋められない「心の溝」
どこかくすぶった気持ちがあったものの、最終的に「離婚」を決断したのは、やはり「介護」が一番だといいます。
「そう遠くない将来、夫の介護をしている自分がはっきりとみえたんです。もういやだ、今の環境から逃げ出したい――そう思うようになったんです」
「さようなら」と言い残し、優子さんは出ていきました。ひとりになり、がらんとした家で正雄さんは初めて優子さんが残していった手帳の存在に気が付きます。そこに綴られていたのは、正雄さんの想像を絶する、地獄のような日々の記録でした。
「今日も下の世話で一日が終わる。お義母さんから『あんたは気が利かない』と罵られた。夫に電話しても『頑張ってくれ』だけ。誰にもわかってもらえない」
「親戚の集まり。みんな私の前では『ご苦労様』と言うけれど、誰も手を貸そうとはしない。『長男の嫁だから当然』という空気が重い」
日記は、夫への悲痛な問いかけで締めくくられていました。
「あなたは、私がどんな思いであなたのお母さんの手を握り、下の世話をしていたか、一度でも想像したことがありますか?」
正雄さんは言葉を失いました。自分は、妻の犠牲の上に胡座をかき、感謝の言葉だけで責任を果たした気になっていたのです。「妻」という一面は知っていても、「長男の嫁」という立場に苦しむ優子さんを見ようともしなかった正雄さん。退職金5,000万円という大金も、優子さんが失った25年近い歳月の前には、何の意味も持ちませんでした。長年耐え続けた孤独と絶望に気づかなかった自分こそが、離婚の元凶だった――その事実に、この期に及んでようやくたどり着いたのです。
しかし、時すでに遅し。離婚は成立し、退職金の半分以上が財産分与と慰謝料として優子さんに渡りました。しかし失ったのは、お金だけではありません。かけがえのないパートナーと、長年積み上げてきたはずの信頼でした。
[参考資料]

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