
安定した収入や社会的な信頼を得られる、教師という仕事。働き方改革が進む現代においても、現場で奮闘する人々からは、教育現場の厳しい現実が浮かび上がってきます。さらに「このまま教師を続けるのは……」と悩む先にも大きな壁がありました。
年収900万円でも…心身をすり減らす教員の日常
「限界でした……」
そうつぶやいたのは、東京都内の公立小学校で教員を務める田中健一さん(当時44歳・仮名)。2年ほど前の出来事をそう振り返ります。担当するクラスの児童の保護者から電話があったのは、夜7時を回ったころ。聞こえてきたのは、興奮しているのか、感情的な声。その日、7時に登校し、13時間に及ぶ勤務で疲れもピークに達しているなか、とにかく保護者の声に耳を傾けます。
「一体、学校ではどんな指導をしているんですか!」
きっかけは、児童間の些細なトラブル。しかもそのトラブルは下校後に起きたもので、本来、学校とは無縁のものでした。しかし保護者の怒りの矛先は、相手の児童とその親、さらには学校にまで及び、30分以上も同じクレームを繰り返すばかり。電話を切ったあと、田中さんの疲労で机に伏して、しばらく動けずにいたといいます。
田中さんは教員歴20年のベテランで管理職。各種手当を含めた年収は900万円と、傍から見れば、高額かつ安定した収入を得る「恵まれた公務員」そのものです。しかし、その内情は過酷を極めていました。
朝は7時に出勤し、授業準備や会議、子どもたちの指導に追われ、息をつく暇もありません。放課後も校務に追われ、平日に帰宅できるのは、決まって夜の10時過ぎ。夕食は、妻の優子さん(40歳・仮名)が用意してくれた、冷めたおかずを1人で食べるのが日常でした。
「あなた、顔色が悪いわよ」
自分でも、心と体が限界に近いことは分かっていました。長時間労働だけが問題なのではありません。保護者からの過度な要求、複雑化する児童間の問題、そして、こなしてもこなしても終わらない事務作業。情熱を持って飛び込んだはずの教育現場で、田中さんは確実にすり減っていました。
文部科学省『令和4年度教員勤務実態調査』によると、2022年、小学校教諭の1日あたりの在校等時間は10時間45分。2016年調査から30分、減少しました。また1週間の総在校等時間の分布をみていくと、最多は「50~55時間未満」で30.3%。60時間以上は14.2%で、前回調査から20ポイント近く減少しています。働き方改革が進み、その満足度が高いことは調査からもわかりますが、実際は学校によるところが大きく、田中さんのように心身ともにすり減らしている教員もまだまだ多くいるのが現実です。
そして田中さんは大きな決断をします。
「転職を考えている」
その言葉に、妻・優子さんは驚いた顔をしましたが、すぐに「分かった」と静かに頷いてくれましたといいます。
公務員に何ができる…転職市場の厳しい洗礼
本格的に転職活動を開始した田中さん。長年の教員経験で培ったコミュニケーション能力や、学校運営で培ってきたマネジメント能力には、それなりの自信がありました。きっと、民間企業でも活躍できるはずと考えていたといいます。
民間企業で働く大学時代の旧友から転職活動の進め方のアドバイスをもらい、まずは転職サービスに登録。いくつかの企業を紹介してもらい、そのなかから数社、書類審査も通過。面接にこぎつけます。しかし、そこで田中さんは、教育現場とはまったく違う、厳しい現実に直面することになるのです。
それは中堅のコンサルティング会社での面接でのことでした。面接官は同年代だと思われる男性。面接が進むなか、面接官から衝撃的な言葉が投げかけられます。
「田中さんはずっと学校の先生をされていたからなのか、ビジネス感覚がないのではないでしょうか」
「会社と学校は違うので、そのあたりをもう少し理解されたほうがいい」
予想していなかったわけではありません。しかし、これほどまでに直接的な、ある種の軽蔑を込めた言葉を投げかけられるとは、思ってもみませんでした。田中さんは必死に食い下がります。学校運営で培ったマネジメントスキル、多様な保護者と対話してきたコミュニケーション能力、教材作成で培ったプレゼンテーション能力――民間企業でも通用するはずのスキルを、懸命にアピールしました。しかし、面接官の反応は芳しくありません。
「弊社で田中さんが活躍されているイメージが、どうしてもできません」
面接後、田中さんは込み上げてくる悔しさと絶望感に、唇を噛みしめました。教員という仕事に誇りを持ってきた20年間が、すべて否定されたように感じたのです。
その後も、複数社、面接にこぎつけるも「公務員のキャリアは民間企業では通用しない」と一蹴され続けたといいます。エージェントからも「若手教員の民間企業への転職は多いが、40代となると厳しい」という現実をまた突きつけられたとか。そこで勧められたのが「公務員という立場でのキャリアチェンジ」。
「たとえば市役所とか……確かに、そういうところのほうが、教員のキャリアが生きるのではないか」
そう考えた田中さん。早速申し込んでみるも、なかなか書類審査が通らない日々が続きました。「倍率が高い。1名採用のところに100名以上の申し込みがあるので……」とエージェント。厳しい現実に、眩暈を覚えたといいます。
「キャリアチェンジを考えるには遅すぎたのかもしれない……」そう考え、転職を諦めた田中さん。当時を振り返り、「キャリアをゼロから見つめ直すきっかけになってよかった。教師の道を究めるしかないと、考えられるようになった」といいます。
[参考資料]
文部科学省「教員勤務実態調査(令和4年度)の集計(確定値)について」

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