
老人ホームと聞くと「介護が必要になってから入居するもの」というイメージを抱いている人は多いでしょう。しかし、実は昨今、健康で自立生活に支障のない60歳前後のシニアが“あえて老人ホームに入居する”というケースが増えているそうです。いったいなぜなのか、山﨑裕佳子FPが、健康でアクティブな65歳夫婦の事例を紹介します。
老人ホームに入居する“若年層”が増えている
老人ホームは「介護が必要になってからお世話になる場所」と考えている人が多いかもしれません。
ところが、近年では自立生活が可能な60歳前後のシニアが“終の棲家”として老人ホームを選択するケースも増えています。特に注目されているのが、いわゆる「住宅型高級老人ホーム」です。
こうしたエグゼクティブ向けの老人ホームは、まるでホテルのような外観と設備、洗練された居室を有し、一流レストラン並みの食事が提供されるのが特徴です。また、ラウンジや図書館、プール、温泉大浴場なども完備されていることが少なくありません。さらに、なにかあったときの医療、介護へのアクセスもきちんと確保されています。
ただし、“高級”というだけあって費用面のハードルは高く、「みんなの介護」掲載データによると、高級老人ホームと呼ばれる施設の入居一時金の全国平均は1,566万円、平均月額利用料は38万円となっています。
都内に目を向けると、目黒区、世田谷区などはさらに相場が上がり、入居一時金の平均は2,500万円超、平均月額利用料は60万円にのぼります。
このように、相当な費用が必要であるにもかかわらず、高級老人ホームへの入居希望者が増えている背景には、なにがあるのでしょうか。
そこには、「子どもに迷惑をかけずに終末期を過ごしたい」「おひとりさまの老後不安を解消したい」といった理由もさることながら、「この先は手放しで人生を謳歌したい、自由に老後を楽しみたい」という思いが強くあるようです。
とある“健康自慢”の65歳夫婦の事例から、その実態を紐解いていきましょう。
“健康自慢”の65歳夫婦が「老人ホーム」を選んだワケ
浦野マサユキさん(仮名・65歳)と妻ユミコさん(仮名・65歳)は現役時代、ともに公立中学校の教師を務めていました。夫マサユキさんは体育科、ユミコさんは音楽科の教員で、60歳の定年まで職務をまっとうしました。
2人には長男、長女、次男と子どもが3人いますが、それぞれ結婚や就職で家を離れており、東京郊外の一戸建てには夫婦2人で住んでいます。
65歳を迎えてからは老齢年金の受給が始まり、年金額は夫婦で月額40万円ほど(額面)。なお、住宅ローンは完済しており、他に負債はありません。
2人とも体力には自信があり、マサユキさんは週3回のジョギングが日課です。ユミコさんも、趣味のテニスとヨガに精を出す毎日。夫婦で年に2回は温泉地に旅行に行くなど、悠々自適な生活を満喫しています。
そんなある日のこと。夕食後、2人揃って見ていたテレビで「高級老人ホーム」を特集していました。
健康自慢の2人にとって、老人ホームは縁のないものでしたが、映し出される高級老人ホームのまるでホテルのような豪華さに、一気に魅了されてしまいました。
番組によると、都内に点在する高級老人ホームはホテル顔負けの設備が充実しているようです。広い居室に高級感のある内装、敷地内に緑や水辺まで備えています。万が一のときの医療・介護体制も整っており、交通アクセスもよく、外出にも便利なようでした。
「わあ、すごいわねえ」
「こんなところで毎日過ごせたら、最高の老後だろうな」
夫婦が住む築35年の一戸建ては老朽化が進んでいました。きしむ床や階段にヒヤヒヤしながら、リフォームか建て替えかという話をしていた折、高級老人ホームは余計に魅力的に映ったそうです。
「まずは資料を集めてみよう」
特集が終わり顔を見合わせた2人は意見が一致。早速、近隣の高級老人ホームについて調査を開始しました。
すると、長男一家が暮らす隣の市に、よさそうな施設を発見しました。長男の家から2駅の場所にあり、築半年と新しい施設です。
「これは運命かも」とすっかりその気になった夫婦は、長男にも相談し、一緒に施設見学へ。期待どおり、施設はきれいで、居室も広く、設備も豪華です。施設職員のホスピタリティも高く、担当者からは「当施設は、一流ホテル並みの食事が自慢です。駅へのアクセスもよく、元気で自立している人ほど向いています」と言われ、ますます気持ちが高ぶります。
浦野夫妻の前に立ちはだかった障壁
しかし、「高級老人ホーム」というだけあって、通常の老人ホームに比べ、入居一時金や月額利用料の壁が立ちはだかります。
浦野家の資産は、40万円の年金と6,000万円の貯蓄のほか、自宅不動産があります。
自分たちで概算した結果、費用面では問題なさそうでした。しかし念のため第三者の意見を聞こうと、夫婦は知り合いのファイナンシャルプランナー(FP)に相談することに。
入居金1,700万円と月額44万円…どう払う?
老人ホームに入居する際にかかる費用としては、一般的に入居時に払う「一時金」と毎月払う「利用料」の2つがあります。
その支払い方法には2通りあり、①入居一時金の比率を高くして月額利用料を抑える方法と、②入居一時金を抑えて月額利用料を多めに払う方法から選ぶことができます。
入居期間が長くなるほど、一時金比率の高い前者のほうが有利です。健康自慢の浦野夫妻は長生きすることを見込み、入居金1,700万円、月額利用料44万円の前者の支払いタイプを選びたいといいます。
そこでFPは、6,000万円の預金と月額40万円(額面)の年金でシミュレーションを行うことにしました。
その結果、30年後2人が93歳の時点で約700万円の預金が残る計算に。現状の資産で高級老人ホームに入居しても問題なさそうです。
ただし、ここで注意したいのは「月額利用料以外の支出」です。月額利用料に含まれているのは、賃料と管理費、食費のみ。水道光熱費や介護費用は含まれていません。また、旅行費や小遣いなどの支出を想定すると、資産がマイナスとなるタイミングが試算より前倒しになる可能性があります。
夫婦は納得した様子で、FPと次のような会話を交わしました。
ユミコ「でも、大丈夫。資金が足りなくなりそうなら、自宅を売ればいいわよ」 ユミコさんの話によれば、60坪ある自宅の土地は5,000万円ほどの価値があるようです。 マサユキ「たしかに。当面自宅は売却しないつもりだったけど、老人ホームで一生暮らすなら自宅はいらないからな」 FP「では、お二人の意向をお子さんたちにもしっかり伝えておきましょう。期待していた遺産がもらえないことで親子関係にひびが入るケースも多いので」 マサユキ「なるほどな。うちは大丈夫だと思うんだが……それなら、子どもたちを集めて話をしよう」浦野夫妻の「その後」
話をすると、見学に付き合ってくれた長男だけでなく、長女や次男も老人ホームへの入居に好意的です。
「父さんと母さんの好きにしていいよ。いままで一生懸命働いてきたんだから。自分たちのお金は自分で使って」
資金が足りなくなったら、自宅を売る可能性もあることを告げましたが、これにも納得してくれました。
その後、とんとん拍子に話は進み、希望の高級老人ホームへ入居することに。現在、入居してから1年が経ちましたが、ホームでの生活は水に合っているようです。
「家事から解放され、趣味に没頭できる環境は本当に幸せです。もう、前の生活には戻れません。長男夫婦と住んでいる距離が近くなったことで、孫と頻繁に会えるのもうれしいポイントです」
夫婦は心から楽しそうにお話を聞かせてくれました。
リスクも少なくない…入居は慎重に検討を
今回の事例のように、資産のある夫婦が“終の棲家”として高級老人ホームを選択するケースが増えています。うまくいけば幸せな毎日が待っていますが、そうでない場合も想定しておいたほうがいいでしょう。
いまは健康であっても、一生涯それが続くという保証はありません。また、今回のケースの場合どちらかが先に亡くなれば年金収入は半減します。将来的に起こり得るさまざまなケースを想定して施設の利用料を払い続けられるのかシミュレーションしてみることが重要です。
また、舞い上がって夫婦だけで話を進めた結果、あとになって子どもが「そんな話聞いていない!」と騒ぎトラブルに発展するケースも見聞きします。あとになって揉めないためにも、自分たちの考え方や価値観を日頃から子どもに共有しておきましょう。
山﨑 裕佳子 FP事務所MIRAI 代表

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