
年金や退職金があっても、予想外の出費や社会の変化が、シニア世代の働き方に影響を与えています。高齢者が再び職場に立つ背景には、家族への思いや将来への備えなど、さまざまな事情が潜んでいます。
穏やかな老後を過ごしていたが…
夜20時近くになった牛丼チェーン店。席はサラリーマンを中心に埋まっています。そのなかで、慣れた手つきで牛丼を運び、黙々と片付けをする高齢の男性。鈴木雄介さん(仮名・72歳)です。大手食品メーカーを勤め上げ、60歳で定年退職。悠々自適の年金生活を送っていましたが、70代になってから再びアルバイトを始めたとか。
総務省統計局『労働力調査』によると、2023年、65歳以上の就業率は25.2%。年齢別にみていくと、「65歳~69歳」で52.0%、「70歳~74歳」34.5%、「75歳以上」11.5%と。高齢になるにつれて就業率は低下するものの、全体的には増加傾向にあります。内閣府『令和5年版高齢社会白書』では働く理由として、「収入がほしいから」が最も多く挙げられており、生きがいや社会参加といったポジティブな理由だけでなく、経済的な必要性に迫られている高齢者が少なくない実態がうかがえます。
鈴木さんの場合、60歳で定年を迎え、再雇用制度を利用し、働き続けるという選択肢もありました。定年時に受け取った退職金は2,300万円ほど。貯蓄は2,000万円ほどありました。将来、受け取れる年金は18万円ほど。2歳年下の妻は月15万円ほどの年金を受け取れると考えていました。すでに住宅ローンは完済しているし、贅沢をしなければ老後も暮らしていける――そんな算段で、定年を機に仕事を辞めることにしました。
鈴木さんは26歳で結婚。28歳で第1子、32歳で第2子、さらに50代前半で初孫が誕生し、サラリーマン人生のなかで、親になり、さらには祖父になる経験をしています。
仕事を辞めてからは、地域活動に参加したり、趣味のガーデニングを楽しんだり、妻と遠出したり。たまに孫が遊びに来てくれるときは、庭でバーベキューが定番。そんな幸せな日々を過ごしました。そんな日々を過ごしていながら、なぜ、鈴木さんは牛丼店でアルバイトをしているのでしょうか。
10年前に交わした「大丈夫」という約束
話は、初孫の翔太さん(仮名)がまだ小学校2年生だった10年前に遡ります。夏休みの自由研究で、翔太さんは「未来の家」というテーマで、段ボールやペットボトルを使った大きな模型を作りました。リビングの中心には吹き抜けがあり、屋上には庭園が広がる、夢のような家。
「すごいじゃないか! 翔太は将来、建築家だな!」
手放しで褒める鈴木さんに、翔太さんは嬉しそうに頷きながらも「でも、お母さんがいってた。大学に行くのは、すごくお金がかかって大変なんだって……」とつぶやきました。翔太さんの母親(鈴木さんの娘)はシングルマザー。女手一つで自分を育ててくれる母の苦労を、幼いながらに感じ取っていたのでしょう。
その健気な一言に、鈴木さんは「大丈夫。おじいちゃんがいる。翔太が大学で勉強したくなったら、学費の心配はしなくていい。だから、安心して夢を追いかけなさい」と語りかけました。
その言葉は、翔太さんにとって大きな希望となり、祖父との約束を胸に、翔太さんは建築家になる夢を追いかけ、勉強に励んできたのです。しかし、ここ数年、物価高が日本を襲います。特に年金頼りの高齢者の生活は、苦しさを増しています。
「買い物に行くたびにモノの値段があがっていて……年金生活は大変だよ」
夫婦の会話のなかでポロリと出た本音。そんな言葉が翔太さんの耳にも届きました。母に迷惑をかけたくないと考えるような子どもです。当然、祖父母に無理をさせられないと考えるでしょう。大学の推薦入試を控えたある日のこと。翔太さんは意を決したように、家族にこう告げました。
「俺、大学に行くのやめて、就職しようと思う。早く働いてお母さんを楽にさせたいし、おじいちゃんたちにも、もう迷惑はかけられないから」
確かに物価はあがっても年金が増えるわけではない現実を前に、生活は日に日に苦しくなっています。安泰にみえた老後の生活も、少々雲行きが怪しくなってきました。このような状況のなかで孫の教育費の援助を行うのは、危険なことでした。そこで鈴木さんは「再び働く」という選択をすることにしたというのです。
大切な退職金や貯蓄は、万が一のために残しておく。新たに稼いだお金で、孫の学費を支援する。そう決意したといいます。選んだのは、近所でバイト募集の貼り紙をしていた牛丼店。
「健康にもいいし、10年前にした孫との約束も守ることができる。一石二鳥ですよ」
株式会社パーソル総合研究所『シニアの就業実態・意識調査』によると、70代が働く理由として最も多かったのが「働くことで健康を維持したいから」(57.8%)。「生活を維持するために収入が必要だから」(47.6%)、「働かないと時間を持て余してしまうから」(39.9%)と続きます。
70代にして働く理由はいろいろ。孫の夢を支える、というケースも珍しいことではないかもしれません。
[参考資料]
総務省統計局『労働力調査』

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