
定年して収入がなくなった後、私たちの生活を支えてくれる年金。通常65歳の受け取り開始を後ろ倒しにすることで、金額を増やすこともできます。しかし、意外と繰下げる人は少ないというデータも。見ていきましょう。
年金を65歳から受け取り→「増額なし」に満足
Aさん(仮名・72歳)は、長年勤めた地元企業を65歳で退職。60歳からの5年間は雇用形態が変わり収入は大幅に減りましたが、「引退にはまだ早いし、なにより金銭的に不安だった」と話します。
不安の理由の1つが、Aさんが独身であること。20代で一度結婚したものの、その後はずっと一人暮らし。「誰にも頼れない」という現実を自覚していたといいます。そんなAさんの年金受給額は、65歳の受け取り開始で月額13万円ほどでした。
「長年働きましたが、小さな会社で課長止まりでしたからね。貯金は退職金の残りを合わせて1,400万円。マンションのローンは払い終わっていますが、老後には不安もありました」
金銭面での不安から、繰下げ受給も真剣に考えたというAさん。しかし、この7年を振り返って「繰下げなくてよかった」と笑顔を浮かべます。
「年金が増えるのは確かに魅力的。仮に5年繰下げたら、月5万円以上増えますからね。でも受け取り開始のときには70歳です。この年になって実感するのは、65歳と70歳では大違いだということ。65歳のときは仕事を辞めたばかりで、内心『まだ年寄りじゃないぞ』という気持ちがありました。でも今ではすっかりシニアです(笑)。体力も確実に落ちましたし、目もぐっと悪くなりました」
あくまで自分の場合は、と前置きしたうえで、こう続けました。
「年金を普通に受け取ったおかげで、貯金とのバランスを見ながら国内外の行きたい場所にたくさん行けました。私はその土地の美術館に行くのが趣味でね。でも、もし繰下げて年金の受け取りを先にしていたら、ここまで自由には動けなかったと思います。それに、この数年で大病をしたり亡くなったりした友人もいて、長生きするかなんて、誰にもわからないんだなと。思い出を作ったおかげで、この先は慎ましく暮らしても悔いは少ない。繰下げなくてよかった……つくづく感じています」
揺れる年金制度の現実
少子高齢化が進み、支え手が確実に減る中で、日本の年金制度は大きな壁に直面しています。現在の制度は「賦課(ふか)方式」が基本。現役世代が納めた保険料を、現在の高齢者への年金支給に充てる仕組みですが、高齢者の増加と若者の減少によって、このバランスが崩れつつあります。
「自分たちが高齢になる頃には、年金制度は崩壊しているのでは……」と不安を抱く人がいるのも無理はありません。しかし、日本の年金は“選択制”ではなく“義務”です。すべての国民が加入することになっています。
国民年金(老齢基礎年金)は満額で月額6万9,308円。昨年の6万8,000円よりも上がっています。「えっ、年金増えてるの?」と思うかもしれませんが、年金は物価や賃金の変化率、人口減・平均寿命の伸び(マクロ経済スライド)により調整されています。
一見すると増えて得しているように見えますが、物価の上昇などにより、実質的に「生活が苦しくなった」と感じる人も多いのが実情です。
会社員の場合は、国民年金に加え、厚生年金(老齢厚生年金)を受給できます。厚生年金保険料は、標準報酬月額の18.3%で、その半分(9.15%)を会社と労働者がそれぞれ負担。
給与から自動で天引きされているため、あまり意識しないかもしれませんが、明細を見てその負担の大きさに驚く人も少なくありません。
とはいえ、老後に働けなくなったとき、この年金が大きな支えになるのは事実。多くの人にとって、年金は「老後の柱」といえるでしょう。
お金が増えても「繰下げ」を選ぶ人が少ない理由
そんな老後の柱である年金を増やす方法があります。それが「繰下げ受給」といって、年金の受け取りを後ろ倒す方法です。
現在、年金の受給開始年齢は原則65歳ですが、60〜64歳の間に前倒しで受け取る「繰上げ受給」、66〜75歳の間に後ろ倒しで受け取る「繰下げ受給」も選択できます。
繰下げ受給では、1ヵ月繰下げるごとに0.7%ずつ年金額が増え、1年で8.4%、10年繰下げれば最大で84%の増額になります。
【繰下げによる増額率】
・66歳:8.4% ・67歳:16.8% ・68歳:25.2% ・69歳:33.6% ・70歳:42.0% ・71歳:50.4% ・72歳:58.8% ・73歳:67.2% ・74歳:75.6% ・75歳:84.0%
※昭和27年4月1日以前生まれ(または平成29年3月31日以前に老齢基礎(厚生)年金を受け取る権利が発生している)の人は、繰下げ上限年齢は70歳まで。増額率は最大で42%
たとえば、65歳から月10万円の年金を受け取れる人が、最大の繰下げ幅である75歳まで繰下げると、単純計算で月18万4,000円になります。差額は実に月8万4,000円、年間では非常に大きな差になります。
「繰下げれば年金が増える」という仕組みは、人生100年時代、働けるうちは働くという人も多い時代に、一見マッチしているように見えます。
ところが、厚生労働省の「厚生年金保険・国民年金事業年報」(令和3年度)によると、繰下げ受給を選択した人は国民年金で1.8%、厚生年金では1.2%と非常に低い割合になっています。
理由はさまざまですが、多くの人が「自分が何歳まで生きるかわからない」と考えているからでしょう。年金の損益分岐点(=繰下げによる元が取れる年齢)を超えなければ、得をしません。70歳まで繰下げた場合、損益分岐点は81歳11ヵ月です。
もちろん、繰下げによって実際に得をする人もいるでしょう。「年金は保険のようなもの」と捉え、生活費を年金に頼らなくても済む人であれば、繰下げを選んでも後悔はしづらいかもしれません。
いずれにしても、繰下げ受給にはメリットもあればデメリットもあります。年金だけに頼らない老後資金の設計を考えながら、自分にとってベストな選択をすることが大切です。

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