フェアレディZ生活を謳歌!結婚・妊娠をきっかけに売却…ボクは最後のドライブで捕まった【ぼくたちのバブル考現学:第4話】

カミサンの妊娠で泣く泣く売却!最後のドライブで起きたサプライズ

輸入車のことを「外車」と呼んでいた80年代バブル期。「ワンレン・ボディコン」スタイルの女性が増殖し、彼女らのいわゆる下僕が「アッシー、メッシー、ミツグクン」と呼ばれていた時代です。このバブル時代にモータージャーナリストになった青山尚暉さんが、当時の様子をクルマを交えて振り返る「ぼくたちのバブル考現学」。第4回は「フェアレディZに夢中になっていた若きボクの最後のドライブで起こったエピソード」です。

フェアレディZの沼にどっぷりつかる

1980年代、まだ外車の魅力を知らない若造のボクを夢中にさせてくれたのが、2代目となる日産 フェアレディZ(S130型)だった。

当時は、いすゞ「ピアッツァ」とマツダファミリアGT」の2台持ち+スクーターの10輪生活をしていた。ある日、ファミリアに乗って、青山通りにある東京日産を彼女とともに訪れた。ボクがまだ20代の頃である。しかし、ショールームを訪れたボクたちに、セールス氏は

フェアレディZは高いですよ!」

ファミリア乗りの若造2人に冷ややかな対応を浴びせたのだった。

むしろその悔しさが起爆剤となり

「頑張ってフェアレディZを買おう!」

と、強い気持ちにさせてくれたのも本当だ。それから何年か経った1981年、ピアッツァとファミリアの2台を手放し、ついにマンハッタンカラーと呼ばれるブラック&シルバー2トーンのフェアレディ280Z Tバールーフを手に入れることになった。

そのころは自動車専門誌の編集部員で、まだ駆け出しだから、主に1980年代に爆発的に盛り上がったドレスアップのページを担当していた。ボクは、手始めにフェンダーミラー(1981年当時の日本仕様はまだドアミラーではなかった)を北米仕様のドアミラーに付け替えるため当時、横浜三ツ沢(神奈川県)にあった、Zのドレスアップに特化したショップ「ジャパンダットサンサービス」を訪れた。これがZ沼にどっぷりつかるきっかけだった。

ぼくたちのバブル考現学

Z熱が高まりハワイで挙式!その理由は…

ボクは、Zクラブにも加入し、彼女とのドライブデート代わりにジャパンダットサンサービスに通いつめた。280Zはみるみると、エクステリア、エンブレム、メーター(カナダ仕様のkm/h表示)などを含め、ハンドルの位置以外は北米仕様=280ZX風にドレスアップしていったのである。

ちなみに1981年型まで購入を待ったのは、マイナーチェンジで後期型となるからである。280Zの2.8L直6エンジン(L28E NA/ECCS)が最高出力155ps、最大トルク23.5kg-mにパワー&トルクアップされた。同時に、オーバーライダー一体型のカラードバンパー、ボンネットのNACAダクト、新デザインのアルミホイール、テールランプ&センターピラーフィニッシャーの採用など、めちゃくちゃカッコよくなったタイミングだった。ある意味、青山の東京日産で苦い思いをして、1981年まで購入費用を貯めに貯めておいてよかったことになる。

もっとも、1982年に発売された、歴代Z初のL20ET型2Lターボエンジンを搭載するフェアレディZターボの追加(国産車初の60タイヤも履いていた。215/60R15)を知り、ちょっぴり羨ましい思いをしたのも本当だけど……。

日産の説明によると

1978年フェアレディZは2代目にフルモデルチェンジしました。S130型は、2.8リッター直列6気筒エンジンL28Eを搭載。ボディサイズの拡大し、2シーターと2+2シーターの2種類をラインナップ。高級感を高めながらより洗練されたモデルとなりました。1980年には、コンバーチブルスポーツカーの魅力を楽しみたいお客さま向けにTバールーフモデルを追加しています。当時、大人気を博した刑事ドラマ西部警察で、ガルウイングドアなどの特別架装を施したスーパーZが登場したことなどもあり、日本国内で280Zは伝説のクルマとなりました」

以来、ボクのフェアレディZ熱はますます高まり、1984年ハワイで結婚式を挙げた。その際、オアフ島で1983年に登場したZ31フェアレディZ(3代目)のレンタカーを借りた。その足でホノルル日産を訪れ、フェアレディZの日産50周年記念車を撮影させてもらい、ダウンタウンのカー用品店でS130 DATSUN 280Zのパブミラーを買い求めたりするなどしてZ生活を謳歌。なお、人生初の試乗記も、Z31フェアレディZ@ハワイだったのである。

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