
大相撲の佐渡ケ嶽部屋に所属していた元力士が、新型コロナへの感染をおそれて休場を求めたのに拒まれたため引退に追い込まれたほか、「かわいがり」を受けていたなどとして、佐渡ケ嶽親方らに賠償を求めていた訴訟で、千葉地裁松戸支部(古河謙一裁判長)は6月27日、元力士の請求を棄却する判決を言い渡した。
原告の元力士、琴貫鐡の柳原大将さんは、相撲部屋には厳しい稽古を装った私的な制裁「かわいがり」が横行し、「兄弟子から口の中に塩や砂を詰め込まれ、倒れた体を蹴られる暴力をうけた」などとうったえ、そのような行為を親方が止めなかったと主張していた。
地裁判決は元力士の訴えを認めなかったが、なぜこうした判断に至ったのか。スポーツ法務に詳しい岩熊豊和弁護士が判決文をもとに解説するとともに、”密室”になりやすいスポーツ現場の証拠確保のポイントについて説明する。
●元力士「塩や砂を口に詰められた」、佐渡ケ嶽親方側「暴力行為一切ない」——原告側はどのような暴力行為があったと主張し、被告側はどんな反論をしましたか
本件は相撲部屋における暴力行為(いわゆる「かわいがり」)を巡る訴訟です。原告は、2013年3月頃および2016年1月頃の2つの時期にわたり、兄弟子や親方から暴行・私的制裁を受けたと主張しました。
具体的には、2013年3月頃、朝稽古への遅刻を理由に、長時間のぶつかり稽古を強いられ、塩や砂を口に詰められ、倒れた体を蹴られ、さらに竹ぼうきの柄を両手の甲に置かれたうえで兄弟子が足を乗せるなどの行為があったと主張しました。
また、2016年1月頃には、稽古中の不出来を理由に部屋付き親方から「かわいがり」の指示があり、倒れた原告に対して、髷を掴んで引き起こしたり、顔に水を吹きかけたり、腹に乗る、土俵の外へ蹴り出すなどの行為があったと主張しました。
そして、被告である佐渡ケ嶽親方がこれらの暴力を認識していながら放置したことが不法行為に当たると訴えました。
これに対し、被告側は、佐渡ケ嶽部屋では私的制裁や暴力行為は一切存在せず、原告の主張する事実も認められないと反論し、不法行為の成立を全面的に否定しました。
●裁判所「不法行為は認められない」——裁判所の判断は
千葉地裁松戸支部は、原告が主張する「かわいがり」の事実について、いずれの時期についても客観的証拠が存在しないこと、証言に不自然さや矛盾があることを理由に信用性を否定し、暴行等の事実自体を認定できないと判断しました。
なお、原告が傷んだ肉を食べさせられたと主張した点については、原告が撮影した肉の写真が調理・食事の場面を捉えたものではないこと、SNS投稿内容も不自然であること、他の元力士の証言も客観的証拠に裏付けがないことなどから、強要の事実は認められないと判断し、不法行為の成立を認めていません。
また、原告がケガを理由とした稽古を休むことが許されなかったと主張した点については、流行性結膜炎や左肘のケガに関する原告の証言に親方の関与の有無に関して矛盾が見られること、および客観的証拠がないことから、親方がケガや病気を理由に稽古を休むことを認めなかった不法行為は認められないと判断しました。
●なぜ客観的証拠がほとんどないと指摘されたのか——原告側の証言や証拠は信頼されなかったのでしょうか
判決では、原告側の証言の信用性が否定されました。
まず、暴力行為や食事強要、稽古強要といった原告の主張に関して、客観的証拠(写真、録音、医療記録など)がほとんど存在しない点が繰り返し指摘されました。
また、原告の証言自体についても、SNS投稿の内容が被害者として不自然であること、「かわいがり」を受けた後の親方との会話でそれに言及しなかったこと、日付の特定や親方の在室状況に関する証言と他の証拠との矛盾などが挙げられ、証言の信用性が低いと判断されました。
さらに、他の元力士による証言についても、客観的裏付けが乏しく、原告の主張を補強するには不十分とされました。以上の点から、裁判所は原告の主張する不法行為の事実を認定できないと結論づけました。
●「かわいがり」そのものが事実として認定できないと判断された——判決のポイントは
判決では、原告が主張した「かわいがり」行為が事実として認定できないと判断されたため、裁判所は、相撲界における指導と私的制裁の線引きについて法的評価を行う必要がなく、不法行為の成否を論ずるに至りませんでした。
つまり、原告が訴えた「厳しい稽古を装った私的制裁」としての「かわいがり」の存在自体が証拠不十分であるとされ、事実の存在が前提とされなかったため、どこまでが正当な指導で、どこからが違法な暴力・私的制裁となるかの判断は示されませんでした。
一部のスポーツの現場では、伝統的に慣習とされる「かわいがり」などが不適切行為の隠れ蓑となり得るという問題が存在しますが、司法判断においてもなお残された課題となっています。
●スポーツの現場での「いじめ」「かわいがり」をどう証明するか——一般的に、「密室」となるスポーツの現場におけるいじめ・かわいがり・ハラスメントなどを証明することは難しいのでしょうか
実務上、スポーツ界などの閉鎖的な「密室」で行われる暴力やハラスメントを法的に立証することは非常に困難です。
主な理由としては、録音・録画や第三者の記録が残りにくいために客観的証拠が乏しく、証拠が当事者の記憶や証言に偏る傾向があることが挙げられます。
加えて、師弟関係や上下関係に基づく強い力関係により、被害者が声を上げにくく、他の関係者の協力も得にくいケースが多く見られます。
さらに、肉体的・精神的負荷が「成長のため」として正当化されがちであるため、違法性の認識や指導との線引きも曖昧になりやすく、トラウマや記憶の曖昧さから証言に矛盾が生じることで信用性が疑問視される場面も少なくありません。
組織が名誉を優先して問題を表面化させず、証拠が散逸・抹消されるケースもあります。
このように、密室での行為については証拠の確保そのものが難しく、立証のハードルが極めて高いことから、被害発生時からの継続的な証拠保全が決定的に重要となります。
——具体的にどのような記録が訴訟で役立ちますか
・被害を受けた日時・場所・状況、加害者の言動、自身の体調や心情などを記録した日記やメモ
・加害者や周囲とのやりとりが保存されたメールやSNSの履歴
・信頼できる第三者への相談記録
・ケガの写真や音声・映像の記録
このような証拠が、後日の訴訟や相談において重要な意味を持ちます。これらの証拠は、証言の一貫性や被害の客観性を支える基礎となり、証拠が乏しい中でも主張の信用性を高める手段となり得ます。
暴力が「稽古」や「指導」として正当化されやすく、周囲も沈黙しがちな状況では、被害者自身による記録の積み重ねがほぼ唯一の証拠手段となるため、日々の記録の重要性は極めて高いといえます。
【取材協力弁護士】
岩熊 豊和(いわくま・とよかず)弁護士
2000年弁護士登録。福岡県弁護士会所属。スポーツトラブル(スポーツ中の事故、体罰、パワハラ・セクハラ・いじめなど)に注力。交通事故、離婚、遺産相続(遺産分割・遺言・遺留分)、民事事件全般も取り扱う。公益財団法人日本スポーツ協会ジュニアスポーツ法律アドバイザー。スポーツ問題解決の目標は「スポーツを楽しむという原点を取り戻すこと」。
事務所名:岩熊法律事務所
事務所URL:https://kumaben.com/

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