
近年増えている熟年離婚。片方が限界を感じて離婚を申し出ても、もう片方は「青天のへきれき」というケースもあるようだ。ある定年退職者の事例から実態を探る。
「俺は来月でいまの職場を退職するからな」夫から妻への通達
「理想的な夫婦だと思っていました、私自身は…」
そういってがっくりと肩を落とすのは、山田博さん(66歳・仮名)だ。山田さんは大手メーカーの管理職を務め、60歳で定年退職。その後は関連会社の部長として65歳まで勤務した。
「会社員時代はそれなりの給料をもらい、自宅マンションも購入。親孝行な息子は有名私大を卒業して大手企業に就職してすぐ結婚。夫婦2人、この後の人生は夫婦水入らずで、と思っていたんです…」
しかし、妻である陽子さん(65歳・仮名)の思いはまったく違ったようだ。
山田さんは金曜日の夜、いつものようにリビングでビールを飲みながら、陽子さんに声をかけた。
「おい。俺は来月でいまの職場を退職するからな。いよいよ本格的な老後生活だ。夏になる前に、兵庫の兄貴のところに顔を出しに行くから、来月の最後の土日にホテルを取っておけ。前に泊まったところはイマイチだったな。もっと安くていいところを探しておけよ」
すると、普段はおとなしく従っている陽子さんが言葉を返した。
「いまは海外旅行者が多くて、どこも値段が上がっているの。お義兄さんの家は観光地のそばだから、これから探してホテルの空きがあるかどうか…」
「はぁ? それを探すのがお前の役割だろう。探す前からなにをいっているんだ、まったく…」
そういうと、博さんは残りのビールを飲み干すと、陽子さんをリビングに残し、一足先に2階の寝室に向かった。
「俺が散髪から戻るまでに、宿泊先を探しておけよ」
翌朝、博さんが起きると、ダイニングテーブルには朝食が準備してあったが、陽子さんの姿はなかった。
「なんだ、買い物か…。しかし、かわりばえしない朝メシだな」
博さんはそうつぶやくと、新聞を片手に食事をすませ、近くの理髪店に出かけた。
〈俺が散髪から戻るまでに、宿泊先を探しておけよ〉
理髪店で髪を切ってもらいながら陽子さんにLINEでメッセージを送るが、返信はない。
「さっさとテーブルを片付けろ。昼飯は!?」
髪を切ってサッパリした博さんは、近隣の書店などをめぐり、自宅に戻ったのは昼過ぎだった。だが、ダイニングテーブルには朝食の食器がそのまま残っていた。
博さんはソファに腰かけると、洗濯機のある洗面スペースに向かって声をかけた。
「おい、さっさとテーブルを片付けろ。昼飯は!?」
ところが、室内は静まり返って反応がない。
「なにをやっているんだ…」
立ち上がって見に行くが、どこにも陽子さんの姿はなかった。
すると、博さんのスマホのLINE通知が鳴った。陽子さんからだった。
〈テーブルの上の書類、お願いします〉
メッセージはたったひと言。
不審に思った博さんがダイニングテーブルを見ると、テーブルの端に封をされていないA4の封筒があり、「離婚届」の文字が見えた。
「なんだ、これは…!」
博さんが乱暴に書類を抜き出すと、もう一枚の書類が床に落ちた。
落ちた書類を掴むと、それは「財産分与請求調停申立書」と書かれた書類のコピーだった。
「離婚してください。退職金も、貯金も、半分もらいます」
動揺した博さんが陽子さんに電話を掛けると、3コールで出た。そしてすぐ、陽子さんは用件を切り出した。
「離婚してください。退職金も貯金も、きっちり半分いただきます」
博さんは思わず血の気が引いた。
「どうして――!」
博さんと陽子さんのように、熟年離婚に至る夫婦は珍しくない。厚生労働省の『令和4年(2022)人口動態統計』によると、離婚17万9,099件のうち、同居期間20年以上の離婚は3.9万件と、離婚の4分の1弱は熟年離婚だ。子育てが終了し、仕事から引退した節目で、このような展開になるケースが多いのかもしれない。
「子どものときから、横暴な父親がイヤで仕方なかった」
「私と妻は、夫唱婦随の〈理想の夫婦〉だと思っていました…」
博さんは力なく語る。
「腹が立って、妻に何度も電話をかけていると、息子が電話を替わったんです」
息子の説明によると、陽子さんは息子夫婦の家にしばらく身を寄せたあと、中国地方の実家に帰るという。
「息子からは〈子どものときから、毎日家のなかで横暴にふるまう父親がイヤで仕方なかった、だから自分は早く家を出た〉〈お母さんのためにさっさと離婚してあげてほしい〉といわれました。本当にショックです…」
●だれのおかげで生きていけると思っているんだ
●いうことを聞けないなら出ていけ
●口答えするなら俺ぐらい稼いでみろ
博さんが息子さんから指摘されたのは、これらをはじめとする暴言の数々だった。
「一家の主として、必死で働いて家族を守ってきたのに。暴言? そんなもの吐いた記憶、まったくありませんが…」
無自覚な言動で妻を追い詰めた結果の「モラハラ離婚」
これらは、夫の無自覚な言動が妻を精神的に追い詰める「モラハラ(モラルハラスメント)」の一種ともいえる。裁判所『司法統計年報(令和4年度)』によると、「精神的な虐待」は2番目に多い離婚理由となっている。
また、法律上は婚姻期間中に夫婦が協力して得た財産は「共有財産」とみなされる。妻が専業主婦として家事や育児を担い、夫が外で働ける環境を支えてきた貢献は、金銭的な価値と同等に評価される。夫婦期間中に築いた貯金や退職金は財産分与の対象となり、特別な事情がない限り、貢献度は2分の1と判断されるのが一般的。
ちなみに、博さんの退職金は3,000万円。家庭の預貯金は4,000万円だ。
また、夫婦が婚姻期間中に納めた厚生年金を分割できる「年金分割」の制度もあるため、長年専業主婦であっても、ある程度は年金を多く確保でき、離婚後の経済的安定の一助となる。
妻の感情に無関心で、ほとんど気づくことのなかった博さん。「我が家は問題ない」との独りよがりな思いが、長い年月を経て取り返しのつかない夫婦間の亀裂となってしまったようだ。
[参考資料]
裁判所『司法統計年報(令和4年度)』

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