
●原点は新人ニュースキャスター時代の“現場志願”
5月下旬、マイナビニュースが報じたテレビ宮崎(UMK)の役員人事に、大きな反響が集まった。長年にわたり夕方ニュースや報道・情報番組でキャスターやメインMCを務めるなど“UMKの顔”として活躍してきた榎木田朱美アナウンサーが、新社長に就任することになったのだ。女性アナウンサー出身の民放テレビ局社長は初の事例と見られ、期待の声が宮崎県内外から寄せられている。
新人時代から従来のアナウンサーの枠にとどまらず、開局50周年プロジェクトでは総合プロデューサーとして同局初の自社制作ドラマ『ひまわりっ~宮崎レジェンド~』(東村アキコ原作、平祐奈主演)を実現させるなど活躍し、社長にまで就任した榎木田氏は、どのように道を切り開いてきたのか――。
○背中を押してくれた一人娘の言葉「ママは私の誇りだよ」
前任の寺村明之社長(退任後は相談役就任)から社長就任の要請を受け、「本当に突然のことで全く想像していなかったので、驚き以外の感情が出てこなかったです」という榎木田氏。「全国唯一の3系列(フジテレビ系、日本テレビ系、テレビ朝日系)クロスネット局で、“喜びも3倍、苦労も3倍”という激務になりますし、世の中のリアクションがほぼ恐怖でした」と、不安の感情が大きかったという。
一方で、局として「Change & Challenge」(変化と挑戦)というスローガンを掲げる中で、開局50周年プロジェクトの総合プロデューサーとして同局初のオリジナルドラマ制作を指揮した実績などを評価した寺村氏から「この改革を一歩もニ歩も進めてくれるのは君しかいない」と言われ、「これはもう定めだと思って受けるべきなのかもしれない」という感情にも。
2日後の返事を求められ、「その2日間は生きた心地がしなかったです(笑)」というが、ここで背中を押してくれたのが、高校2年生の一人娘だった。
「彼女のことが一番大事だと思っていて、再来年に控える大学受験までは、そばにいてあげられる母親でいたいと思っていたんです。ところがその娘に今回の話を相談したら、“やっぱりママがなると思ったよ。これまでずっと最前線でやってきたのに断れるの?”、“受験はしっかり自立して頑張るし、みんなで応援するから。ママは私の誇りだよ”と言ってくれたので、これはもう頑張るしかないと思いました」
○女性キャスターがトップニュースを読むために
前述の50周年プロジェクトのほかにも、高校生のキャリア教育イベント「UMK高校生フォーラム」や、宮崎中心市街地のコミュニケーションスペース「&Labo by UMK」を立ち上げるなど、アナウンサーという枠にとらわれない活動をしてきた榎木田氏。その原点は、ニュースキャスターとしての新人時代にあった。
入社3年目で夕方のニュースを担当するようになったが、当時は男性キャスターがトップニュースを読み、女性キャスターは2番目や柔らかいネタが割り振られるのが当たり前の時代。そこで、トップになりそうなニュース原稿を自分で書けば読めると考え、現場取材を積極的に志願した。時には、「デスクに原稿をほぼほぼ書き直されたり、OAで落とされたりしたこともありました」と辛酸をなめながら、徐々に採用されるようになっていく。
選挙特番でも、「スタジオに華がないから、女子アナはスタジオで開票状況を読んでくれ」という時代に、「華になんてなるもんか!」と、事前に選挙事務所を取材。門前払いされることもありながら、粘り強く回って取材したネタを、開票状況に織り交ぜて伝えた。政治キャップから「時間が押すだろ! 余計なこと言うな!」と怒られることもあったが、諦めずに続けることで、こちらも評価されるようになっていった。
「当時、私が自由にできるチャンスを与え得ていただいた上司や皆さんの懐の深さのおかげで直接取材をして、皆さんの声を自分のコメントで伝えることができて、しかも自分が現場で感じたことをプラスアルファできることに、ニュースキャスターがしびれるほどの天職だと感じたんです。そんな思いでがむしゃらにやっていたら、自分で取材をして、原稿も書いて、気づいたら特番も作るようになって、どんどん役割を頂けるようになりました」
一つ一つの“現場”にこだわることで、チームのメンバーを信頼し、ニュースキャスターを18年、報道・情報番組のメインMCを7年と計25年にわたり務めてきた榎木田氏。「ニュース番組は一人ひとりの記者やカメラマン、アシスタントが作ってきた映像や原稿が並ぶのですが、それをしっかりつないで一つの番組として県民の皆さんにお届けするのがキャスターの役割で、とてつもないやりがいを感じました」といい、この経験がチームをまとめて様々なプロデュースを進めていくことにつながっていったのだ。
●自分の存在意義にショック…アナウンス部からの異動
しかし、アナウンサーとしてキャリアを重ねてきた中で、2021年にアナウンス部を離れ、編成業務局長に任命された時は、「番組を降りることになって、今までやってきたこの30年が何だったんだろうと、自分の存在意義が分からなくなってしまい、3カ月ほど会社に行けなくなってしまったんです」と、大きなショックを受けたという。
「編成のことなんて全く知らないのに、局長なんて言ってデスクに座っていられるのだろうか…」と不安を抱えていたが、局員のメンバーが「榎木田局長を本物の局長にします!」と仕事を教えて支えてくれたことで、自身の中で変化が。
さらに、「生まれてからの3カ月が一番大変だからね」という自身アドバイスを受け、産後すぐの育休取得をした男性社員が「榎木田さんの一言があったから、第2子、第3子を考えたんです」と話してくれたことで、「アナウンサーとしての自分軸だけではなく、誰かの役に立つことに喜びややりがいがあるという軸に気づけたんです。そこから、画面に出るだけではなく、伝える方法はたくさんあるんだと思って気持ちが整理できて、UMKをしっかり発信することに人生を懸けようと思いました。だからUMK愛が異常に強いんです(笑)」といい、そのマインドで経営者の道を進むことになった。
○女性社員、地元経済界、市民から喜びと期待の声
マイナビニュースの取材では、女性アナウンサー出身の民放テレビ局社長は、「これまでの事例で聞いたことはない」(民放関係者)、「同様の事例は把握しておりません」(民放労連)とのことで、史上初とみられる。
本人としては、「女性アナウンサーが経営者になることは稀有なことであるというようなバリアは、あまり感じていないです。なので、女性アナウンサーからの社長が初めての事例という話は、世の中に発表されてから後付けの感覚でした」というが、「アナウンサーは、トータルでバランスを取る仕事だと思っているので、アナウンサーの仕事が改めてきちんと評価されて、全国のアナウンサーの皆さんがご自身のキャリアパスを想像できるようになるとしたら、うれしいことだと思いました」と受け止めている。
新体制では社内・社外合わせて18人の取締役のうち、女性は榎木田社長のみ。「局長、取締役になってもずっと女性1人でしたが、振り返ると結婚しても会社を辞めない女性第1号でしたし、かつては産休・育休制度がなかったので、総務の方と一緒に作って利用したんです」と、自ら道を切り開く“ファーストペンギン”の役割を担い続けてきた。
女性社長の誕生に、女性の社員やスタッフからは「うれしいです」「誇りです」と声をかけられたのだそう。地域の経済界にとっても大きなニュースだったようで、「想像をはるかに超える皆さんから“おめでとう”とおっしゃっていただいて、重鎮の皆様からも“新しい時代を感じる”、“応援するよ”という声を頂きました」と明かす。
また、「スーパーやコンビニ、マンションのエレベーターで、これまでも“いつも見てます”と言ってくださることは多かったのですが、最近は特に女性の皆さんが“すごくうれしいです!”、“育休中でへこたれていましたが、これからまた頑張ろうと思いました”と、親戚みたいにすごく喜んでくださるんです」と県民から直接の反響も。社長就任を伝えたフジテレビ系列のニュースサイトでは、UMK発の記事の中で今年1番の視聴回数を記録したといい、長年にわたり局の顔として愛されているのが伝わってくるエピソードだ。
●社長就任後も公式ページのアナウンサー一覧に
社長就任後も、公式ホームページのアナウンサー一覧に名前を連ねている榎木田氏。局長や取締役になっても、自ら立ち上げた子育て情報番組『Mama talk TV ママテレ』(毎週土曜11:00~)にレギュラー出演してきたが、今後は頻度が下がるものの、随時登場する予定だという。
それは、「子育てというコンテンツは、地域にとってとても大事な情報なので、それに対してUMKとしてのメッセージを発信できる場になると思っています」と番組を位置付けているため。「まずは社長1年目として修行をしっかりやってまいりますが、私が会社としてのメッセージを出す必要がある場合は、出演させていただこうと思っています」と方針を明かした。
また、新たに制作する局の企業イメージCMにも登場。その狙いについて、「私が社長になったというニュースで、UMKのチェンジ感というものが届いたと思うので、私の顔を使ってもらうとそのイメージが湧きやすいのかな、というただ一点ですね。いろんなバリエーションを制作しますが、私が主役ではありませんので」と語っている。
●榎木田朱美1970年生まれ、宮崎県出身。宮崎大学教育学部卒業後、92年テレビ宮崎にアナウンサーとして入社。18年にアナウンス部長兼50周年事業・コンテンツ開発準備室部長となり、開局50周年プロジェクトの総合プロデューサーを務める。その後、編成業務局長、メディア推進局長、取締役報道制作局長、取締役コンテンツプロデュース局長を歴任し、25年6月に社長に就任した。
(中島優)

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