世界三大レースと称される、ル・マン24時間(以下ル・マン)、モナコ・グランプリ、インディ500。この中にあっても日本においてあたまひとつ飛びぬけて人気があるのがル・マンではないだろうか。24時間かけて1番周回数を重ねたマシーンが優勝、という単純明快なルールもあり、古くから世界各国でオリンピック的な人気がある。その歴史は1923年に始まり、途中、大戦の影響などもあり幾度かの間断はあるものの、2025年で93回目を数える。

その歴史の長さから、いくつもの「初~」や「~記録」がこれまでに生みだされてきたが、日本人にとってはル・マンにおける日本人(車)チームの初参戦や初優勝は多くのモータースポーツファンの記憶に残っているはずだ。日本人/日本車初参戦は1973年に日本のシグマオートモーティブが開発したMC73(ロータリーエンジン)と同車を駆った、生沢徹/鮒子田寛/パトリック・ダ・ルボ選手組。日本車初優勝は1991年マツダ787Bロータリーエンジン)、そして日本人初優勝は1995年の関谷正徳選手となる。

そんな中にあって今回注目したいのが、今からちょうど30年前、文字通り“雨に祟られた”1995年ル・マンを日本人ドライバーとして初めて制した関谷選手が搭乗したマクラーレンF1 GTRである。

マクラーレンと聞けば誰もが真っ先に思い浮かべるのは、1980年代後半から1990年にかけて一世を風靡したカリスマ的ドライバーのアイルトン・セナマルボロカラーも鮮烈なフォーミュラ1(F1)マシーンだが、マクラーレンF1 GTRは名前こそF1だが、それとは無縁な存在だ。

マクラーレンF1は当初はモータースポーツとは“別腹”。マクラーレンF1は、最良のロードゴーイングスポーツカーを目指して1985年に設立されたマクラーレンカーズの第1作で、1992年に約1億円という価格で発売された。開発は数々の名レースカーの設計を手掛けたゴードンマレー技師が陣頭指揮をとり、カーボンコンポジット製のモノコック構造や車体中央に運転席、その両脇に助手席を配置するといったロードカーとしては独創的なレイアウトを採用、世界中のリッチスポーツカー好きを魅了し、約100台が製造された。

意外なことに当初はモータースポーツへの転用は考えられておらず、あくまでロードカーとして最良であることが目指され、それは十二分に達成されていたが、やはりそのポテンシャルの高さから、オーナーや顧客の中にはマクラーレンF1でのレース参戦を望む声が高まりつつあった。そこで急遽、当時のFIAが定めた車両企画、GT1カテゴリーに合致する改造を受けて開発されたのがマクラーレンF1 GTRであった。とはいえ、外観は大型のウィングやフロントのフェンダーフレア(オーバーフェンダー)、車両下部の整流板の追加程度で市販車の面影を色濃く残しており、メカニズムに関してもブレーキのキャパシティアップや、エンジンの熱対策といったリファインが中心で、大幅な改造は必要とされなかったというのが、ベース車のマクラーレンF1の素性の良さを物語っている。

あれから30年―― ル・マンで日本人初優勝をもたらした忘れじの名マシーンが1/18モデルカーで復活【model cars】