
「愛の不時着」で全世界的にブレイクして以降、韓流スターのトップにふさわしい大作が続くヒョンビン。彼の主演最新作として話題の『ハルビン』(公開中)は、1909年の朝鮮半島を舞台に描くスケール感のあるサスペンスだ。ヒョンビンが演じる安重根(アン・ジュングン)は、日本の植民地支配からの独立を目指す義軍の中将で、韓国では英雄視されている歴史上の人物。その理由は、彼が当時の韓国統治していた日本の朝鮮総督府の初代統監であった伊藤博文を殺害した人物だからである。
【写真を見る】ウ・ミンホ監督から「アン・ジュングンを演じられるのは彼しかいない」と『ハルビン』の主演に抜擢されたヒョンビン
映画はアン・ジュングンが伊藤の殺害を決意し、成し遂げるまでを追っていくのだが、英雄を祭り上げるタイプの物語とはまったく異なる。描かれているのはむしろ「英雄」という言葉の持つ勇ましさとは程遠い、孤独や恐怖に震える姿だ。
■ヒョンビンら実力派韓国アクターが大韓義軍の信念を体現
伊藤博文がハルビンを目指す約10ヶ月前から、物語は始まる。日本軍と一戦交えて勝利したジュングンは、仲間の反対を押し切り、万国公法(国際法)に基づいて捕虜を解放するが、その残党の反撃によって自身の配下はほぼ全滅してしまう。たった一人で仲間との合流地点、ロシアのクラスキノのアジトを目指すジュングンだが、半島とロシアの国境、完全に凍結した豆満江を前に足がすくむ。自分の信念(もしくは最後に残された人間性)によって多くの仲間を死なせてしまった。その凄惨な戦闘と、敵も味方も入り乱れた死屍累々がフラッシュバックしてしまうのだ。人家も人影も何ひとつない真っ白な世界でたった一人、凍りゆく我が身を抱きしめるように氷上に横たわる姿は、集団の大義と個人の信念に葛藤しながら孤独を深めてゆく、その後のジュングンそのものだ。
それこそ韓国の現代につらなる歴史的瞬間を描く作品は、主演のヒョンビンをはじめ、韓国映画や韓国ドラマで人気の俳優たちが顔を揃えるのも魅力のひとつだ。例えば、義軍の中でジュングンと主導権を争い、時に対立するイ・チャンソプ役を演じるのは、伝説的ドラマ「トッケビ ~君がくれた愛しい日々~」のイ・ドンウク。「梨泰院クラス」で最大の悪役としてブレイクしたユ・ジェミョンは、義兵を物質的精神的に支える総長、実在の人物チェ・ジェヒョンを演じる。かつてジュングンと共に戦い命を落とした義兵の未亡人であるコン夫人を演じるのは、「ヴィンチェンツォ」で主役級スターに上りつめたチョン・ヨビンだ。日本軍側には、ジュングンに執着する悪役・森少佐を『ソウルの春』(23)以上の憎々しさで演じるパク・フン、そして日本からは伊藤博文役でリリー・フランキーが出演している。
物語のサスペンスを最も盛り上げるのは、ジュングンの盟友を演じた二人のクセ者俳優、キム・サンヒョン役のチョ・ウジンと、ウ・ドクスン役のパク・ジョンミンだろう。二人はクラスキノのアジトで作られた「断指同盟」――祖国独立を誓ってともに左手薬指を切断した仲間たち――の一員なのだが、やがてここには日本軍のスパイが紛れ込んでいることがわかってくる。「ナルコの神」と『密輸1970』(23)でそれぞれ「裏切り者」を演じている彼らは、画面に出てくるだけで胡散臭さを漂わせることのできる俳優だ。
そして忘れがたいのは、『ソウルの春』で知られる大スター、チョン・ウソンの存在だろう。彼が演じるパク・ジョムチュルはモンゴルの馬賊に身を落としたかつての義軍の闘士であり、義勇兵の悲劇性――報われるかどうかもわからない戦いですべてを失い、誰にも顧みられない存在として死んでゆく――を具現化した存在だ。ウ・ミンホ監督の前作『KCIA 南山の部長たち』(20)にも通じるテーマである。
■砂漠、氷上、雪原…海外ロケで捉えた大自然
映画はそうしたドラマを、驚くほど美しい映像で見せてゆく。ロケーションは、韓国はもとより、ロシア時代の様式の建築物が残るラトビアなどでも行われているが、圧巻なのはモンゴルでロケーションした壮大な風景だろう。映画冒頭で圧倒されるのは、ウランバートル空港から車で16時間のフブスグル湖で撮影したという、凍結した豆満江の場面だ。氷上に描き出される青い迷路のような模様はあまりに巨大すぎて、そこに立つヒョンビンの姿が豆粒ほどにしか見えない。
馬賊となったパク・ジョムチュルを訪ねる道のり――滑らかな稜線を描く砂漠と馬上の一行が作る影はまるでおとぎ話のような美しさだが、よくみれば砂漠の砂が微動だにしない。モンゴルの冬の砂漠は、カラカラに渇きながら凍りついているのだ。映画の現場をまったく知らない素人であっても、この映画の撮影がどれほど過酷だったかは想像にかたくない。だが氷点下40度の湖でおそらく数時間は横たわったヒョンビンは、その経験を「人物に入るのに役立った」と語っている。CGではない極限状態での撮影は、役者たちのリアルな感覚を通じて、その時代にその地で戦った義兵たちの苦しみを観客たちにも痛切に感じさせる。
■苦悩や孤独を浮かび上がらせるライティングや高性能カメラの美しい映像
それを更に際立たせるのが、16世紀バロックの天才画家カラヴァッジョの絵画を参考にしたというライティングである。カラヴァッジオの絵画は、強い光源で一方方向からのみ照らしたコントラストの強い画面が特徴的で、映画は多くの場面でそれに習っている。だが例えばクラスキノの暗いアジトで、向こうから手前に画面を照らす強い光に浮かび上がるのは、仲間たちの輪郭のみだ。カメラが人々の顔を正面から捉えれば、強い光に照らされる部分より、光の強さゆえに濃さを増す影が、義兵たちの孤独を描き出す。最も印象的に見たのは映画後半、あまりに多くの同士を失ったことに失ったジュングンが苦悩する場面だ。
アジトの小さな部屋で彼を照らすのは、奥にある縦長の窓からの光のみなのだが、その光が窓の桟(サン)を十字架の形に浮かび上がらせる。ユ・ジェミョン演じる義兵の総長チェ・ジェヒョンがその前に立ちジュングンに与えるのは、ある種の「赦し」だ。そして、号泣しながら跪き、ジェヒョンに葛藤のすべてを吐露するジュングン(熱心なクリスチャンだった)は、この「告解」により自分をなんとか取り戻す。
一方、彼が対する伊藤博文は、常にシンメトリーな画面のほぼ中央に鎮座する。孤独と葛藤を抱える義兵たちの世界が徹底して無彩色であるのに対し、伊藤博文の画面には何かしら赤いもの(象徴するのは日本か、もしくは血の暗示か)が置かれているのも印象的だ。義兵たちの場面からはどこかドラマチックな空気が漂うが、伊藤博文の場面にある古典的で整然とした構図からは、強固な揺るぎなさが漂う。そして暗殺の場面は――こんな言い方は少し奇妙に聞こえるかもしれないが――デザイン的な、整然とした美しささえ感じられる。映画冒頭の戦闘場面は「映画の戦闘シーン」とは一線を画す「人間の身体のぶつかり合い」という感じの生々しさだが、暗殺の場面はそれを意図的に避け、静けさの中にジュングンの叫び声だけを響かせる。高い位置からの俯瞰の視点は、件の十字架の場面と、その後に続く衝撃的な場面と呼応した「神の視点」と言えるかもしれない。
『パラサイト半地下の家族』(19)で用いられた高性能カメラが捉えた映像は画面の隅々までクリアで美しく、だからこそ映画館でこそ見るべき作品といえるのだが、何より素晴らしいのは、そんな美しい映像が「映像そのもの」のためでなく、人間を描くために使われていることだ。実を言えば、日本によって韓国が植民地化されたのはこの事件の後であり、ハルビンでの伊藤博文殺害は韓国の独立に直接的には寄与していない。だがジュングンの真の目的は達せられたように思う。ラストに描かれる小さなエピソードは、この映画が人間ドラマであることの証左にも思えるのだ。
文/渥美志保

コメント