安定や高収入を手放して新たな環境に飛び込む決断は、誰にとっても大きな挑戦です。転職市場では、これまでの実績や肩書きが必ずしも新天地で評価されるとは限りません。変化の波にどう向き合い、どんな覚悟で次の一歩を踏み出すのか、問われています。

49歳、年収1,300万円からの挑戦…「どこでも通用する」という自信

大手メーカーで大きなプロジェクトをいくつも成功させ、年収1,300万円を手にしていた、鈴木一郎さん(49歳・仮名)。今や誰もが羨む勝ち組ですが、そのすべてを捨てる決断をしたのは49歳の誕生日を迎えた後のことでした。

「このままでいいのか?」

安定した毎日。部下も育ち、大きな失敗さえしなければ、役員への道も見えていました。しかし、その安定が、彼には停滞に思えたのです。社内のしがらみ、稟議書の山、変化を嫌う組織の空気――かつてビジネスの最前線で戦ってきた情熱の炎が、消えかかっているのを感じていました。

「自分のサラリーマン人生は、このまま終わってしまうのか――」

そんな危機感を抱いていた折、ヘッドハンターから紹介されたのが、急成長中のITベンチャーでした。面接で会った若い経営者は、鈴木さんの経歴を高く評価し、こう切り出しました。

「鈴木さんの経験は素晴らしい。ですが、正直我々には前職と同じ給与は払えません。基本給は抑えめになりますが、あなたの成果にはインセンティブで全力で応えたい」

その言葉に、鈴木さんはむしろ奮い立ちました。基本給が低いなど問題ない。自分の実力なら、すぐに成果を出してインセンティブで稼げばいい。前職以上の収入を得ることさえ可能だろう。その自信から、雇用契約書に記された「基本給30万円」の文字も、単なる形式的な数字にしか見えませんでした。鈴木さんは迷わずサインし、輝かしい第二の人生の幕開けを確信したのです。

パーソルキャリア株式会社が行った調査によると、ミドルシニア(45~60歳)が転職を考えた理由第1位は「給与があがらない」(42.2%)。「給与が安すぎる」(38.9%)に続き、鈴木さんのように「やりがいを感じられない」が31.0%で第3位となり、全体の3割が理由としてあげています。

通用しない「前職の常識」…突きつけられた「市場価値」という現実

若手の転職であろうと、ミドル世代の転職であろうと、すべてが思い描いたとおりにうまくいくとは限りません。鈴木さんの場合、新しい職場は想像以上に異世界だったといいます。たとえば会議の進め方。重要な戦略会議に、鈴木さんは分厚い資料と詳細なデータを準備して臨みました。しかし、若手社員たちはノートPCを開き、チャットツールリアルタイムに意見を交わしながら、その場で結論を出していきます。鈴木さんの重厚な資料は「後で読んでおきます」と言われるだけで、議論の中心になることはありませんでした。

鈴木さんが良しとしてきた仕事の進め方はまったく通用しません。

「それは前職のやり方ですよね。うちはうちのやり方があるので、合わせていただかないと困ります」

20歳近く下の同僚に叱られる始末。いつしか社内での鈴木さんの評価は、「すごい経歴の部長」から「何もできないおじさん」へと変わりつつあるのを、肌で感じていました。成果はゼロ。給料日が近づくにつれ、現実的な不安が鈴木さんに襲いかかります。

厚生労働省令和6年上半期雇用動向調査』によると、転職入職者が前職の給与に比べて「増加」した割合は40.0%、「減少」した割合は28.9%、「変わらない」が29.5%。40代後半に限ると「増加」は43.8%、「減少」は27.4%。一方で50代前半では「増加」が34.1%、「減少」は30.7%と、50代を境に給与が増加する転職の割合は減少します。給与が転職理由ではなく、キャリアアップを意図した転職であっても、必ずしも収入増に繋がるとは限らない点に、留意すべきでしょう。

そして、転職して2ヵ月後の給料日。鈴木さんは、恐る恐るATMで通帳を記帳しました。そこに印字されていたのは、天引き後の手取り24万円ほどの給与。

「何かの間違いでは……」

口から思わず漏れた言葉は、2ヵ月前の自信に満ち溢れた自分には想像もできないものでした。自分の実力があれば、給与増だって目指せる――そう思っていましたが、とんだ思い違いでした。手取り24万円。それは今の環境における、自分の「市場価値」そのものを突きつけているように思えたといいます。

エリートとしてのプライドは、粉々に打ち砕かれました。これは、決して鈴木さんだけの特別な失敗談ではありません。ミドル転職では、前職の肩書や成功体験は一度リセットされます。新しい環境で求められるスキルセットや文化を正しく理解し、プライドを捨てて学ぼうとする謙虚な姿勢がなければ、どんなに華やかな経歴を持つ人材でも、活躍することは難しいことも多いでしょう。転職活動における「成果次第」という言葉の重みを、本当の意味で理解することが、ミドル転職を成功させる第一歩といえそうです。

【参考資料】 厚生労働省令和6年上半期雇用動向調査』 パーソルキャリア株式会社『仕事と転職に関するアンケート調査』

(※写真はイメージです/PIXTA)