太平洋戦争末期、日本軍は特攻作戦を展開し、多くの若者が搭乗員として参加した。戦死者は6000人を超えるとされている。

第二次世界大戦の終結から来月で80年。そうした中、特攻隊として出撃直前に終戦を迎えた元少年飛行兵の上野辰熊さんが7月8日、都内で記者会見を開き、当時の経験を語った。

上野さんは特攻隊に志願した動機について「国のためになると思っていた」と振り返る一方で、戦争については「戦わないで済むなら、戦わないでほしい」と語った。

⚫︎「軍隊は身近な存在だった」

上野さんは幼少期を満州で過ごした。日常的に守備兵と接しており、「軍隊は身近な存在だった。憧れもあった」と話す。

1943年10月、15歳で大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校に入校。翌年に任官し、京城(現在のソウル)の教育隊で飛行訓練を受けた。当時は戦局の悪化に伴い、修学期間が短縮されていたという。

「時間的には厳しかったが、それに耐える体力があった。ビンタは相当こらえたけど、そんなに厳しいとは思っていない」と述懐する。

特攻に志願した理由については「子どもの頃から、学校で国家のために尽くすという教育を受けてきた。国のために死ぬのは自分たちの務めだと思っていた」と説明した。

⚫︎特攻直前で終戦「ぼうっとした」

1945年5月、沖縄上空での航空作戦をおこなっていた鹿児島県・万世飛行場の第66飛行隊に転属。出撃前に沖縄戦が終結すると、大刀洗北飛行場に異動した。8月14日には特攻出撃の準備命令を受けたが、翌15日の終戦により出撃することはなかった。

上野さんは当日、マラリアにかかり高熱で「玉音放送」が聞こえなかった。夕方になって、仲間から戦争が終わったことを知らされたという。

「全員が完全に死ぬ覚悟ができていた」と語る上野さん。終戦後の1カ月は「ぼうっとした状態」で、何も考えることができなかったという。

⚫︎「外交で解決できるなら、戦わないでほしい」

ロシアによるウクライナ侵攻から3年以上が経つ中、戦争の是非について問われた上野さんは「これを聞かれるのが一番難しい」としたうえで、「為政者に委ねられるもので、それぞれの国の事情もある」と述べた。

そのうえで「日本の為政者には、外交で解決できるなら戦わないでと言いたい」とうったえた。

⚫︎戦友の死と向き合い続ける

終戦から80年が経ち、当時を語れる生存者は年々少なくなっている。上野さんは現在97歳。毎年、終戦の日には戦友の供養を続けている。

長生きの理由を問われると「自分がいた飛行場の同年代の仲間も30人以上が特攻で亡くなった。彼らが(私を)生かしてくれているのではないか」と語った。

特攻直前で終戦迎えた97歳元飛行兵「戦わないでほしい」80年を経た記憶と平和への願い