年金の受取りには「繰り下げ受給」という選択肢があり、受給開始を遅らせるほど年金額が増える仕組みが用意されています。しかし、制度の裏には思わぬ落とし穴や、個々の状況によって受給できないケースも存在します。将来の安心を求めて選んだはずの道が、時に大きな後悔へと変わることもあるのです。

同僚の一言で知った「年金を増やす」という選択肢

トラック運転手の高橋正雄さん(71歳・仮名)は、10年前に共働きの妻・洋子さん(仮名)に先立たれ、現在は一人で暮らしています。洋子さんの死後も必死に働き続け、年金を受け取る65歳を迎えます。この時点で受け取れる年金は月約13万円。このとき、月収は25万円ほどだった高橋さん、収入が半分になることにネガティブな思いを抱いていました。

「仕事はまだ辞められないか……」

そう考えていたところ、同い年の同僚が「俺はまだ働くし、年金は繰り下げて増やすことにしたよ」と話しているのを耳にしました。

「繰り下げ?」

高橋さんはこのとき初めて「年金の繰下げ受給」を知ったといいます。原則65歳から受け取れる老齢年金。希望したら60〜75歳の好きなタイミングで受け取ることができます。

65歳よりも早く受け取るのが「繰上げ受給」。受取りを1ヵ月早めるたびに年金は0.4%減額されます。その反対が「繰下げ受給」。受取りを1ヵ月遅らせるごとに0.7%増額となり、最大、10年間遅らせることで84%も受取額を増やすことができます。

「そんなうまい話があるのか?」

高橋さんの頭の中で、そろばんを弾く音がしました。71歳まで繰り下げれば、年金は1.5倍になる。それだけあれば、老後はずいぶんと楽になるのではないか。

「よし、自分もやってみよう」

それから高橋さんは誕生日が来るたびに「8.4%増えた」「16.8%増えた」「25.8%増えた」などと、増えていく年金を楽しみにしながらトラック運転手の仕事を続けていきました。

6年間の我慢が水の泡…「遺族年金」という見過ごした罠

70歳を迎え、繰下げ受給を教えてくれた同僚は引退。一方、「もう1年、働くつもりだ」の高橋さん。

「年金が1.5倍以上に。それが目標でした」

そして、待ちに待った71歳の誕生日。高橋さんは晴れやかな気持ちで、年金の請求手続きに訪れました。計算では、月額19万5,000円以上。厚生年金に加入していた分も考えると、20万円以上になるはずでした。しかし、年金事務所の窓口担当者から告げられたのは、高橋さんの計画が根底から崩れ去る、衝撃の事実でした。

「高橋様は、65歳になる前に奥様が亡くなられて、遺族厚生年金の受給権が発生しています。その場合、繰り下げはできないんですよ」

「い、遺族年金?」「繰り下げができない?」

順を追ってみていきましょう。

まず、厚生年金に由来する遺族厚生年金は、妻の死亡時に55歳以上の夫に支給されます(60歳までは支給停止)。高橋さんの場合、共働きの妻が亡くなったのは61歳のとき。その時点で遺族厚生年金の受給権が発生しています。

再婚でもしない限り、遺族厚生年金の受給権は失権しません。原則的に遺族厚生年金の受給権を得た時点で自分の年金は繰り下げられなくなるので、高橋さんは年金の繰り下げをしていたわけではなく、単に65歳から受け取れる老齢年金を請求していないだけ、ということになります。

さらに65歳以上で老齢厚生年金と遺族厚生年金を受ける権利がある場合、まず自身の老齢厚生年金が支給され、遺族厚生年金は老齢厚生年金より年金額が高い場合に、その差額のみが支給されます。高橋さんの場合、自身の老齢厚生年金のほうが多く、結果的に遺族厚生年金は受け取ることができません。

年金を繰り下げているつもりでしたが、それは無効で、遺族年金とやらももらえない、ということですか?」

担当者は少々心苦しいといった感じで「そういうことになります」と答えます。

内閣府『生活設計と年金に関する世論調査』によると、遺族年金の知名度は77.3%。2割の人は高橋さんのように遺族年金を知りません。

まだ落胆するような話は続きます。年金には5年の時効があります。高橋さんは受け取っていない年金は6年分ありますが、1年分は時効を迎えてしまっています。受け取っていない年金をさかのぼって請求しても、1年分は受け取ることができないのです。

結局、高橋さんが受け取れる年金は「月13万円」に加え、65歳以降も厚生年金に加入していたことでの「月8,000円ほど増額」ということに。「一度、ご相談いただければ、勘違いをご指摘できたのですが……」。そう言われたところで、結果はそれほど変わりません。「繰り下げできなかったうえに、あと1年と欲張って年金の時効を迎えて……本当にバカみたいだな」と、涙するしかありませんでした。

複雑な年金制度。色々と影響し合う部分もあり、理解するのも難しいでしょう。勘違いでとんでもないことにならないためにも、一度、年金相談などに足を運ぶのもひとつの手です。

[参考資料]

内閣府『生活設計と年金に関する世論調査

日本年金機構『遺族厚生年金

(※写真はイメージです/PIXTA)