
にぼしいわし・伽説(ときどき)いわしによる、日々の「しょぼくれ」をしたためながら、気持ちの「おかたづけ」をするエッセイ「しょぼくれおかたづけ」。
【写真】「ろうそくのついたケーキと私。33歳のお祝いはこそばゆいけれど、うれしかった」
気づけば、もうすぐ生きて33年が経とうとしている。
昔に思い描いていた33歳とは、まったく違う人生を歩いてきてしまった。
ふと、われに返る。この選択は、正しかったのだろうか。もっと引き返すチャンスはあったんじゃないのか。
もう遅い? 今ならまだ? いや、でもここまで来たんだし……。
想像以上に曲がりくねった人生、その道中に見えてしまう自分のふがいなさに、ときにしょんぼり肩を落としてしまうけれど。
あれ、そんな私でも、誰かの小さな幸せになっている……かも?と、いわしが背中を押された日のお話です。
■第7夜「幸せにできてたかな」
もう7、8年くらい会ってない大学時代の友人に会いたくなった。初めて地上波で賞レースの決勝に出たとき、大はしゃぎしてくれたみんな。私にとっても初めてだけど、みんなにとっても初めてだったから。そのみんながいるLINEグループは、今もなお何かあれば、炊き立てのご飯をしゃもじで底から混ぜるように、ガバッと画面の一番上にくる。最近は各々忙しく、炊き立てご飯のようにはなっていないが、たまには私が、と、しゃもじを握った。
「元気?」と打って、ぶっきらぼうかなと思い、消して、「ようやくみなさんの生活水準にたどり着いた者です」と打って、空気が違うかと思い、消して、「みんな最近どない〜?」と打って、また迷ってしまいそうだったから、深く考えずに指だけ動かして送信した。
すぐに「テレビ見てるで〜!」「ほんまにすごいな!!」と陽気な返事をしてくれて、大学のときの、あの何でもできる自分たちに戻った気がした。若くて、疲れ知らずで、悩んでも次の日には忘れていた無敵だったころの私たち。まだ人生が本番ではないような、無責任に生きても取り返しがつくような、あのころの私たち。ひとときであっても、みんなと会えば少しそのころの気持ちになれるような気がした。
早速食事の誘いをした。すると彼女たちは、変わらぬスピードで返事をくれた。「子供がもうすぐ生まれるから難しいかもしれない」「子供がまだ小さいから、親に預けられたら2時間くらいはいけるかも」「仕事があるから難しいかもしれない」
あのころの無敵な友人たちは、立派なお母さんになって、仕事でもしっかりとした役職に就いていた。
ここ数年近況を聞けていなかったから、時の流れにびっくりしたが、そうか、もう私たちは32歳だ。無敵とか無責任とか、そんなことをやすやすと言っていられない、現実をしっかり目に写し、自分の足で着実に踏み込んで生きていかなければならなかった。
「ラジオも聴いてるで! 頑張ってや!」と言ってくれた友人に、出来上がった人間を感じた。
芸人になる前は、4年ほど社会人をしていた。そのときは、小さい部屋を借りて、でもバストイレ別で、都心に住んで、飲みに誘われたら大体はいけて、たまにはちょっといいコーヒーが買えて、少し我慢したら旅行にもいけて、生命保険の加入もしていた。そして、社員としていろんな仕事を任されて、求められている実感があって、後輩に頼ってもらって、先輩にかわいがってもらって、人生が特にねじ曲がることなく、真っすぐ進んでいる気がしていた。
20歳、NSCに入った。
21歳、芸人を辞めた。
22歳、大学を卒業して社会人になった。
26歳、社会人を辞めて、芸人一本に絞ると決めた。
28歳、そこからバイトをしながらフリーになった。
31歳、上京した。
32歳、まだまだ売れていない。
どこからか曲がりくねった私の人生。ムダが多い。不器用に遅すぎる。友人たちのように現実をしっかり目に写して歩いていくような人生は、これからは選べないのだ。
遅かった。全ての選択が遅かった。
そして私は、芸の世界で、常に自分が商品として捉えられていることに少しだけ疲れていた。スタッフさんはみんな笑顔で「ありがとうございました」とエレベーターまで見送ってくれる。でも、今後もう一度この笑顔に会えるかは今日の私の出来次第。今回は多分ダメだった。求められたことができなかった。気がつくと知らない傷がついていて、私は商品にはならなそうだ。
友人に会いたかった。でも、立派な人生を目の当たりにして、みじめな海におぼれたくなかった。
■私が、私の存在が誰かの幸せになっているなら
33歳、誕生日に実家に帰った。
連日のロケで、さらに若くないことを痛感し、年齢について考えていた。
「年齢なんて関係ない。自分のやりたいことをやるのにはいつだって遅くない」
「人生にムダな時間なんてない。全て、今の自分を構成している大切な時間だ」
「今を楽しんだもん勝ち」
成功者の安堵の表情から出るそんな言葉は、残念ながら私には響かない。自分は自分のやり方で、なんてできる強い人間はひと握りしかいない。
私はそうじゃないから。
私の人生には、「いや、いらんかったやろ」という時間が確実に存在している。
芸人を一度やめなければよかった。NSC入るなら、もっと後でよかった。事務所を辞めなければよかった。
人生設計ミス多発の私は、不器用ながらに、何とか生きながらえている。
私は、私を肯定したい。肯定してあげたい。でも、それは甘えなんじゃないかとか、ちゃんと考えなかったからじゃないかとか思う。
肯定したら、以降の私の人生がもっと悪くなるような気がした。
3と3のろうそくが刺さったケーキが用意されていた。実家に帰ると聞いた母親が買ってくれていたのだ。
ごていねいに部屋の電気を消して、火までつけてくれた。ケーキ用のろうそくじゃなかったので、ろうが溶けてケーキにポタリと落ちた。妹が「あかんわ! はよ消して!」と言ったので、ハッピーバースデーの歌の途中で消した。みんなで笑いながら生クリームにかかったろうをぬぐった。
「どれくらい食べる?」と聞かれ、「ちょっとでええわ」と答えた。母親が切り分けた、プレート付きのいちばん大きい8等分は、20歳の私には足りなくて、33歳の私にはかなり大きかった。
「ご飯は食べれてるか」「ちゃんと寝れてるか」「お金はあるんか」「米高いやろ」矢継ぎ早に質問事項を消費していく母親と、横で私の返答に耳を澄ませている父親。恵まれている。私は家族に恵まれている。
だからこそ、人生曲がりくねりたくなかった。情けなかった。この人たちの人生も少し曲がりくねらせてしまった。
孫を抱いていたかっただろうな。保育園の迎えにいきたかっただろうな。ときどき孫をあずかって、私が友人と遊びにいけるようにしてくれたんだろうな。母のようにバリバリ働いているところを見たかっただろうな。とうとう何も成し遂げずに、ケーキにろうそくが刺さりきらない年齢になってしまった。ろうそくだけ別で買いにいっただろう母親の姿を想像して、胸が張り裂けそうを超えて、胸が張り裂けて、体も張り裂けて、私は粉々になった。
その夜、単独ライブ後のアンケートをもう一度見直していた。お褒めの言葉もたくさんあったけど、「幕間の映像が単調だったのでもう少し変化がほしかった」「構成が期待していたものとは違った」など、確かにそうだな、改善したいな、という意見も届いた。昨年もその前も同じような演出はあったのに、その時にはそれを指摘する意見がなかった。私もそこを失敗だと思っていなかった。
思い上がりかもしれない。でも、もしかして私たちのライブを見て幸せになりたい、そう思って会場に来てくれた人だったとして。そこまで幸せになれなかったということは、それだけわれわれの単独ライブに期待してくれていたのかも、と思った。そして私は、私がやるお笑いでみんなが幸せになってほしいと思っているんだ、とはっきりわかった。
私は、私がやるお笑いでみんなが幸せになってほしい。少しだけ、自分に存在価値があるような気がした。それはいわゆる「普通の幸せの人生」では測れない価値で、それは私がうらやましがっていた年相応の価値ではないけれど、それでもこの気持ちに空気を入れて膨らませていきたいと思った。
東京に帰る日、荷物が多いだろうと新大阪まで父親が車で送ってくれた。情けないけれど、それを見せないように無邪気に助手席に乗る。だが、急に駅に着いていないのに、車を路肩に停めた。「どうしたん?」と聞くと、「昨日ちょうど、このラジオのこの時間くらいに金鳥のラジオCMの別バージョン流れててん。やから今日は流れるかな思って」と言う。私が最近出ていたラジオCMを父は楽しみにしていた。ラジオがCMに入るのを待つ。CMに入った。1個目、2個目、3個目。CMが終わった。「流れへんか〜」と車を進ませる。
情けなくて、ムダなかり多い道に進んでいる33歳だけれども。
誰かの楽しみになっていればそれでいいのかもしれない。
今日も良い日だったと眠りにつける要素になっていればいいのかもしれない。
そこまで思えるようになった日には、自分でろうそくを買って、ケーキにブッ刺して。大きめに切ったケーキを頬張って、陽気に踊ってやろうと思う。

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