(鷹橋忍:ライター)

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 NHK朝の連続テレビ小説あんぱん』の主人公・今田美桜が演じる朝田のぶのモデルは、アンパンマンの生みの親である漫画家で絵本作家やなせたかし(本名は柳瀬嵩)の妻・暢(のぶ)である。やなせたかしは知っていても、その妻となると、あまり知られてはいないのではないだろうか。そこで、暢の生涯を辿ってみたい。

6歳で父を亡くす

 朝田のぶのモデルとされる暢は、大正7年(1918)5月18日に生まれた。

 大正8年19192月6日生まれの柳瀬嵩(やなせたかし)より、一つ年上となる。

 ドラマの朝田のぶは高知で育っているが、暢は大阪府生まれだ。

 高知で生まれたのは、暢の父・池田鴻志(いけだこうし/1885~1924)である。

 父・池田鴻志は関西法律学校(現在の関西大学)を卒業すると、大正5年(1916)、当時日本一と謳われた総合商社・鈴木商店の系列である九州の炭鉱会社に入社した。

 だが、すぐに鈴木商店本体に引き抜かれ、大阪木材部で働くようになる。

 大正8年1919)には、釧路出張所の所長に就任した。

 暢が生まれたのは、鴻志の大阪木材部勤務時代である(以上、梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』)。

 暢は大阪や釧路で幼少期を過ごしたが、毛皮の襟付のオーバーコートを着たり、バイオリンやピアノを習ったりしたといい(高知新聞社『やなせたかし はじまりの物語 最愛の妻 暢さんとの歩み』)、経済的に恵まれていたようである。

 父・鴻志は大正13年(1924)、暢が6歳の時、39歳でこの世を去った。

ハチキンの暢

 ハチキンとは、「男勝りの女性」を指す土佐弁であるが、暢はまさに明るく元気なハチキンだった。

 小学校では担任の先生の腕にぶら下がって歌い、女学校でも学校の舞台に立って一人で歌ったり、ピアノを弾いたりしたという(越尾正子『やなせたかし先生のしっぽ~やなせ夫妻のとっておき話~』)。

 また、ドラマの朝田のぶと同じく俊足で、女学校では「韋駄天おのぶ」と呼ばれた短距離ランナーでもあった。

 音楽やスポーツに秀でた、魅力的な少女だったのだろう。暢には兄の穣(じょう)と、瑛(えい)と圀(あき)という二人の妹がいるが、下の妹の圀が「宝塚音楽学校に入りたい」と言ったとき、「暢の方が向いている」と周囲の人が勧めたという(高知新聞社『やなせたかし はじまりの物語 最愛の妻 暢さんとの歩み』)。

最初の結婚と夫の死

 暢は、大阪府立阿部野高等女学校(現在の大阪府立阿倍野高等学校)を卒業した後、東京で仕事に就き(梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』)、昭和14年(1939)に結婚した。

 結婚相手は小松總一郞といい、日本郵船に勤務していた。高知県出身で、暢より6歳年上である。

 暢と總一郞の結婚生活は、7年で終わりを告げることとなる。

 戦時中、一等機関士として海軍に召集された總一郞は病に罹り、3年ほど高知市で療養したが、終戦後の昭和21年(1946)1月19日、33歳で帰らぬ人となったからだ。

 残された暢は、夫を亡くした悲しみに沈むことなく、新たな道を歩みはじめる。

 暢は總一郞の死から8日後に掲載された、高知新聞の「婦人記者募集」の記事を見ると、これに応募する。

 そして、31人の応募者の中から、合格者2人のうちの1人に選ばれたのだ(もう1人の合格者は深田貞子)。

 暢はこの高知新聞社で、やなせたかし(柳瀬嵩/以下、柳瀬嵩で表記)と出会うことになる。

運命の出会い

 昭和21年(1946)2月18日、暢は高知新聞に「見習い記者」として入社した(高知新聞社『やなせたかし はじまりの物語 最愛の妻 暢さんとの歩み』)。

 暢は当初、社会部に配属されたが(梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』)、その後、『月刊高知』の編集部に異動となる。

 同年5月、高知新聞社の採用試験が行なわれ、暢も受付などを手伝った。

 この時、27歳の柳瀬嵩も採用試験を受け、5人の合格者のうちの1人に選ばれている。

 70人が試験を受けていたので、柳瀬嵩はかなりの狭き門をくぐり抜けたことになる。

 柳瀬嵩は5月24日に入社し(高知新聞社『やなせたかし はじまりの物語 最愛の妻 暢さんとの歩み』)、はじめは社会部に配属された。

 ところが、1カ月も経たないうちに、暢のいる『月刊高知』の編集部に異動となる。

 編集部は、リーダーの青山茂、柳瀬嵩より7カ月先に入社した品原淳次郎(しなはらじゅんじろう)と、暢と柳瀬嵩の総勢4名だった。

 編集部に配属となった柳瀬嵩は、暢に一目惚れした。

 後年、柳瀬嵩は「自分のデスクの前に座った女性が綺麗でよかった」と惚気たという(越尾正子『やなせたかし先生のしっぽ~やなせ夫妻のとっておき話~』)。

東京で待つ

 柳瀬嵩は暢に、なかなか気持ちを打ち明けられずにいたが、やがて二人の仲は深まり、恋愛関係へと発展していった。

 そんななか、暢は入社から1年も経たないうちに、高知新聞社を退職することとなる。

 東京で、高知県選出の衆院議員の秘書を務めることに決まったからだ。速記の技術を買われてのことだったという。

 ドラマの朝田のぶと同じように、暢も速記ができた。柳瀬嵩いわく、暢は「中根式速記の名手」だという。

 この頃、柳瀬嵩は東京で漫画の仕事をしたいと願っていた。

 それを知る暢は、柳瀬嵩に「先に行って待っている」と告げると、東京へと旅立っていった。

 柳瀬嵩も覚悟を決め、翌昭和22年(1947)6月に退社すると上京し、先に東京に行っていた暢と同居した。

漫画家として独立した夫を支える

 昭和22年(1947)10月、柳瀬嵩は三越百貨店に入社し、宣伝部で働いた。その傍ら、新聞や雑誌など多くの媒体に、漫画を投稿していく。

 昭和24年(1949)、暢と柳瀬嵩は結婚した。

 漫画家としての収入が三越の給料の三倍を超えたため、昭和28年(1953)、柳瀬嵩は三越を退職し、34歳で漫画家として独立を果たす。

 柳瀬嵩は不安も感じたようだが、暢は、「なんとかなる。収入が途絶えたなら、私が食べさせてあげるから、大丈夫」と励ましたという。

 昭和48年(1973)、柳瀬嵩が54歳の時、幼稚園や保育園に月刊で配本される絵本・『キンダーおはなしえほん』の10月号として、『あんぱんまん』を刊行した。

あんぱんまん』の人気は子どもたちの間でゆっくりと広まっていき、昭和63年1988)10月には、テレビアニメーション『それいけ! アンパンマン』の放映が開始される。

 アニメ放送前後、暢は体調を崩した。検査の結果、乳がんが発覚し、手術を受けるも、すでに全身に転移していた。

 暢は闘病生活を送りながら、できる限り夫を支え続けた。

 しかし、ついに力尽き、平成5年(1993)の11月22日、奇しくも「いい夫婦の日」に、暢は夫に手をしっかりと握られたまま、この世を去った。

 75歳での、痛みも苦しみもない、本当に安らかな最期だったという。

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やなせたかしさん(2013年当時) 写真/時事通信社