
長年添い遂げた夫を亡くし、明らかに元気を失った80代の母。その母を心配し、同居を検討する50代の子ども。ただ、この“親を想う優しさ”が思わぬ悲劇を生みだしたのでした……。親との同居を決心した小倉道人さん(仮名・55歳)の事例をもとに、親との同居で起こりがちなリスクと老後の資金計画の注意点をみていきましょう。辻本剛士CFPが解説します。
老後に向けて準備を始めた50代夫婦
横浜市在住の小倉道人さん(仮名・55歳)は、建築資材メーカーに勤める営業マンです。
年収はおよそ700万円で、現在は専業主婦の妻・聡子さん(仮名・51歳)と2人暮らし。2人のあいだには都内でひとり暮らしをしている社会人1年目の息子がいます。
自宅の住宅ローンはまだ残っており、毎月の返済額は約13万円です。完済予定は65歳となっており、あと10年は返済に追われます。加えて、これまで「教育優先・貯蓄は後回し」が基本だったため、現在の貯金はわずか300万円ほどでした。
しかし、ようやく息子も独立。少しずつではあるものの、毎月5万円程度は貯蓄に回せる見込みです。
「65歳まであと10年。遅いスタートだが、ここから本気で老後資金を準備していこう」
道人さんの表情には、ようやく肩の荷が下りた安堵と、これからの人生に向き合う決意がみられました。
道人さんが気にかける“81歳母”の存在
そんななか、道人さんが最近気にかけているのが、実家でひとり暮らしをしている母親・登美子さん(仮名・81歳)のこと。
1年前に父が他界するまで、登美子さんはおよそ5年ものあいだ父の介護と家計のやりくりに追われ、心身ともに疲れ切っていました。介護費用の負担も重く、貯金はわずか50万円しか残っていません。
「介護が終わってからの母は、どこか力が抜けてしまっていて……なにかぽっかりと穴が空いてしまったようでした」
――これからは自分のために余生を過ごしてほしい。
そんな思いから、道人さんは母親との同居を検討するようになりました。
「お前に迷惑はかけない」…意を決して妻に相談した結果
とはいえ、妻はきっと嫌がるだろう……そう考えた道人さんは、思いつく限りの事前準備を行い、意を決して提案。
当初は戸惑っていた妻も、話し合いを重ねるうちに「お義母さんも高齢だし、ひとりにしておくのは心配よね」と理解を示してくれるようになりました。
また登美子さんには遺族年金と本人の年金が合わせて月11万円あり、生活費の一部をまかなえる見込みであることも聡子さんの安心材料でした。
同居生活スタートも…母の“異変”に戸惑う夫婦
こうして小倉夫婦と母の同居生活がスタートしました。
多少生活リズムの違いなどはあったものの、妻の献身的なサポートもあり、徐々に母も新居での暮らしに慣れてきた様子。少しずつ笑顔も増え、新たな暮らしを前向きにとらえるようになりました。
しかし……。
あるときから、登美子さんに無視できない変化がみられるようになりました。冷蔵庫のなかには登美子さんが買ってきた高タンパク・無添加・グルテンフリーの食材がずらり。入りきらないのか、机に置きっぱなしの買い物袋にも、オーガニックの玄米、無農薬野菜に高級プロテインが無造作に置かれていました。サプリメントも定期便で届き、キッチンの棚は“健康によさそうなもの”であふれかえっています。
“暴走”のきっかけとなった「医師のひと言」
長年にわたって夫の介護と家計のやりくりに明け暮れてきた登美子さんが次に向き合ったのは、自分自身の健康でした。
「一緒に住むんだから、あんたたちに迷惑かけないようにしなくちゃね」と言いながら、登美子さんはようやく自由に過ごせる時間を手に入れたと感じ、少しずつ健康のためのさまざまな工夫を取り入れるようになりました。
そして、“暴走”のきっかけとなったのは、定期健診のときに医師から言われたひと言でした。
「高齢になると筋力が落ちやすいので、タンパク質を意識して摂ってくださいね。あわせて、栄養の偏りにも気をつけて、バランスよくしっかり食事をとることが大切ですよ」
その言葉を、登美子さんは過剰なほど真に受けてしまったようです。
堪忍袋の緒が切れた道人さんの“咆哮”
「しばらくすれば落ち着くだろう」と当初は楽観的にとらえていた夫婦でしたが、母親の「健康志向の買い物」はまったく収まる気配を見せません。
本来であれば、毎月5万円ずつ貯蓄に回して老後資金を積み立てていく予定でした。ところが実際には、生活費の増加によって思うように貯蓄ができず、むしろ家計は赤字気味に。将来への不安が日に日に募っていきます。
同居から3ヵ月ほど経ったある晩、道人さんは意を決して母親に切り出しました。
「母さん、いい加減にしてくれないか? ちょっとやりすぎだよ。買うなとはいわないけど、もう少し量を抑えてもらえないかな?」
すると、登美子さんは即座に反発。
「なあに、私は健康に気をつけてるだけよ! 病気になれっていうの!?」
「高齢者はタンパク質が不足しがちになるってお医者さまも言ってたもの。だから国産のいいお肉でタンパク質を摂取しなきゃ。無添加で安全で、体にいいものを食べなきゃ意味がないのよ! なに、あんた知らないの? この本貸そうか?」
その瞬間、道人さんのなかでなにかがぷつんと切れました。
「……いい加減にしろよ! 誰の金で食えていると思ってんだ!」
食卓は静まり返り、しばらく誰も言葉を発することができませんでした。
母の暴走の結果…家計は“悲惨”な状況に
登美子さんには毎月11万円の年金収入があるものの、収入を超える支出を続ければ小倉家全体の家計に影響が出るのは当然です。
特に今回は、母親の食費だけで月18万円にのぼっており、これは明らかに高すぎます。
総務省統計局が公表している「家計調査(2024年)」によれば、65歳以上の無職単身世帯における食費は約4万2,000円程度。夫婦2人の高齢者世帯であっても約7万6,000円が平均とされています。これをみると、18万円という数字がいかに逸脱しているかがわかるはずです。
息子の道人さんはまだ現役で働いていますが、あと10年もすれば自身も老後生活に入ることになります。多くの人がそうであるように、老後は年金収入に依存する比重が大きくなりがちです。
もし今後もこの生活が続いた場合、10年後には家計が破綻するリスクも否定できません。
小倉家が至急とるべき4つの対策
老後破産を避けるためには、次のような対策が必要です。
- 家計の「見える化」を行う
- 支出を見直す
- 貯蓄を増やす
- 定年後も無理のない範囲で働くことを検討する
なかでも、比較的取り組みやすいのが固定費の見直しでしょう。通信費や保険料、サブスクなどの固定支出は、一度見直して削減すればその後はなにもしなくても節約効果が続きます。日々の節約よりも効果が大きく、かつ精神的な負担も少ないため、最初に取り組むべき項目です。
また、再雇用制度やパート勤務などで、少額でも安定した収入を確保することも大切です。節約ばかりに偏ってしまうと、生活の楽しみや心のゆとりが失われることもあります。収入と支出のバランスを保ちながら、無理なく持続できる生活設計を整えておきましょう。
小倉家の「その後」
親子喧嘩の翌日、道人さんは少し冷静さを取り戻し、今後のことを考えるため、母親を連れてファイナンシャルプランナー(FP)に相談することにしました。
FPは、母親の「健康に気をつけたい」という思いには理解を示しつつも、食費が月18万円に達していることに対しては「さすがに過剰です」と指摘。
また、息子夫婦の老後資金についても言及がありました。
「月5万円の貯蓄では10年で600万円。現在の貯金300万円を合わせても1,000万円に届きません。今後の家計改善も必要ですね」
相談の結果、固定費や生活費を見直したうえで、節約しすぎずに続けられる貯蓄方法を、引き続きFPとともに考えていくことになりました。
登美子さんは、自身の支出が家計にこれほどまで影響を与えていたことを具体的な数字で目の当たりにし、真摯に反省したようです。
「ごめんなさいね。つい夢中になっちゃって……。お父さんが生きていたときみたいに、これからはちゃんと予算を意識しなくっちゃね。ごめんなさい」
こうして、家族は改めて協力し合う方針で一致し、FPとともに家計の見直しに取り組むことになったのでした。
辻本 剛士 神戸・辻本FP合同会社 代表

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