
年金や退職金に恵まれ、誰もがうらやむはずの老後。しかし、経済的な安心があっても、住まい選びひとつでその暮らしは大きく揺らぐことがあります。新築老人ホームという「理想」を選んだ先に待っていた現実とは?
きっかけは「自宅の維持」…理想の終の棲家探し
田中和夫さん(78歳・仮名)と妻の聡子さん(75歳・仮名)は、共に元公立学校の教員で、真面目に、そして堅実に人生の駒を進めてきました。郊外に構えた一戸建てで、ゆったりとした毎日を過ごしていました。週末には庭で草花を愛で、現役時代に集めた本を夫婦で静かに読む。そんな穏やかな日々は、誰もが羨む理想の老後像に見えたことでしょう。
夫婦の年金額は合わせて月40万円ほど。退職金は5,000万円以上が手元にあり、経済的な不安とは無縁でした。まさに「勝ち組」のセカンドライフ。この先も、この家で、穏やかな時間が永遠に続いていく。そう、信じて疑いませんでした。
変化の兆しは、日常の些細なところに現れ始めました。若い頃はなんでもなかった庭の手入れが、和夫さんの腰に重くのしかかるようになり、2階の寝室への階段の上り下りが、聡子さんの膝をじわじわと痛めつけ始めたのです。
この家は子育てを前提に建てたもので、かつて5人家族で暮らしていた頃は手狭に感じることもありましたが、子どもたちがとうに独立した今、高齢の夫婦2人には広すぎる……そう思うこともしばしばでした。
「そもそも、この家、大きすぎるよな」。ある日の夕食後、和夫さんがぽつりと呟くと、聡子さんも「ええ、本当ですね……」と静かに頷きました。掃除、買い物、そして何より、この先どちらかが一人になった時のことを考えると、漠然とした不安が胸をよぎります。
「思い切って、住み替えるというのはどうでしょう」
聡子さんの何気ない提案ではありましたが、広すぎる家に住み続けるよりもずっと現実的な気がしてきました。そうと決まれば、まず考えなければならないのが、どのようなところに住み替えるか。
内閣府『令和6年 高齢社会白書』によると、住み替え先として考えている住居形態は「持ち家(一戸建て)」が28.7%で最も多く、次いで「持ち家(分譲マンション)」が16.6%、「有料老人ホームやサービス付き高齢者向け住宅(介護保険施設を除く)」が10.6%、「賃貸住宅(公営・公社・UR等の集合住宅)」が7.7%と続きます。様々なスタイルがあるなか、田中さん夫婦が目を付けたのは、老人ホームでした。
老人ホームといっても、さらに様々な種類があります。要介護者向けの公的施設である「特別養護老人ホーム(特養)」、リハビリ中心の中間施設である「介護老人保健施設(老健)」、民間運営の介護付き施設の「有料老人ホーム」、見守り付きの賃貸住宅である「サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)」……夫婦は早速、さまざまなパンフレットを取り寄せ、いくつかの施設を見学し始めました。最新の設備、充実したアクティビティ、そして何より、同世代の仲間との新しいコミュニティ――。
そんななか、夫妻の目に飛び込んできたのが、新しくオープンする高級有料老人ホームの広告。まるで高級リゾートホテルのような佇まいです。
見学会に足を運んだ二人は、その期待が間違いでなかったことを確信します。陽光が降り注ぐ広大なラウンジ、最新のマシンが並ぶフィットネスジム、一流ホテルのシェフが監修する料理をいただけるダイニング。館内は真新しい建材の匂いに包まれていました。何より「新築」という響きが、二人の決断を後押ししました。
「どうせ入るなら、誰も使っていない綺麗な場所がいい」
1,000万円を超える入居一時金、ふたりで30万円を超える月額費用も、「人生最後の贅沢」と割り切り、納得しました。
こんなはずじゃ…「新築」という言葉につられて後悔の日々
しかし、入居してしばらく経つと、期待感はすぐに色褪せ始めます。
まず気づいたのは、スタッフの対応のぎこちなさでした。オープニングに合わせて急遽集められたのか、スタッフの多くは経験が浅く、マニュアル通りの言葉を繰り返すばかり。入居者の顔と名前も一致せず、通り過ぎるたびに「田中様、何かお変わりありませんか」と尋ねるものの、その目はどこか虚空を見ています。
「あの……先日お願いした電球の交換ですが…」 「申し訳ございません、すぐに確認して参ります」
そう言って笑顔で去っていくものの、一向に返事がない。そんなことが何度も続きました。人手が足りていないのは明らかで、清掃もラウンジなど目立つ場所は綺麗にされているものの、居室の隅には埃が溜まったままでした。豪華な調度品と、行き届かないサービスとのギャップが、日を追うごとに目につくようになりました。
楽しみにしていた食事も、期待とは程遠いものでした。パンフレットでは腕利きのシェフが腕を振るうと謳われていましたが、実際に運ばれてくるのは、どこか冷めていて味気ない料理ばかりでした。レストランのようなダイニングルームで、入居者たちは黙々と味気ない食事を口に運ぶのでした。
「話が違うじゃないか」 「前のホームの方が、ずっとマシだったわ……」
他の入居者からも、そんな囁きが聞こえてくるようになりました。
新築の老人ホームでは、施設長や一部の社員を除き、経験の浅いスタッフばかりというケースも少なくありません。オープン当初は何かと落ち着かず、期待したサービスを受けられないという不満は起きがちです。通常、時間の経過とともにサービスの質は向上していくものですが、この施設は例外だったようです。
「最初はオープンしたばかりだから、仕方がないと思っていたんです。いずれ慣れてくるだろうと。しかしスタッフがすぐに辞めてしまうらしく、人手不足はいつまでも解消せず、サービスの質も低いまま。見学会で聞いたような素敵な生活は、いつまで経っても送れそうもありません」
高い入居金と月額費用を払いながら、心休まることのない日々。今から別の施設を探す気力も、体力も残っていません。新築の輝きに目がくらみ、そこで働く人を見極められなかった後悔だけが募ります。
[参考資料]

コメント