
東京23区では、2023年12月以降、大規模オフィスビルの募集賃料が上昇傾向にあるものの、その伸び率は物価上昇や建設工事費の上昇と比較して限定的です。こうしたなか、市場関係者の間では、インフレに対応した賃料設定や契約慣行の見直しが模索され始めています。なかでも、グローバルスタンダードな契約方式であるCPI連動条項に対する関心がオフィス市場にも波及しつつあります。本稿では、ニッセイ基礎研究所の佐久間誠氏が、オフィス市場の見方と、CPI連動条項の導入におけるポイントについて詳しく解説します。
「失われた30年」からの脱却。インフレの時代へ
主要国のCPIを比較すると、多くの国が年2~3%の水準で上昇を続けているのに対し、日本のCPIは長年にわたりほぼ横ばいで推移してきた(図表1)。
2013年に日本銀行が物価安定の目標としてインフレ率2%のインフレターゲットを導入したが、日本の物価は中々上向かなかった。しかし2022年以降、日本においてもインフレ圧力が高まり、CPIは2%を超える伸びを示すようになった。2025年4月時点においてもCPIは前年比3%超の伸びを記録しており、日本でもインフレが常態化する可能性が高まっている。
インフレが当たり前の時代では、オフィス市場においても、従来のデフレ的な経済観にもとづく戦略や分析手法を再検討する必要がある。
“名目”賃料は上昇傾向に、しかし“実質”的には割安な状態が続く
東京23区における大規模ビル(1フロア面積200坪以上)の募集賃料は2025年5月に2万7,419円/坪と、2023年12月以降、上昇傾向が続いている。これは、堅調なオフィス需要を背景に空室率が低下し、賃料引き上げの動きが広がっているためである。しかし、物価が上昇している状況下では、こうした賃料の上昇がどれほど市況の回復を反映したものなのかどうか、捉えるには注意が必要である。
オフィス市場の実勢を的確に捉えるには、物価変動の影響を除いた実質賃料に着目することが重要になる。本稿では物価の基調的な変動を考慮するため、天候に左右されやすい生鮮食品の影響を除いたコアCPI(全国、生鮮食品を除く総合)を用いて名目賃料を実質化した。2000年から2022年までの期間においては、コアCPIがほぼ横ばいで推移したため、一般に参照されることが多い名目賃料と、物価変動を考慮した実質賃料の間に大きな差はなかった(図表2)。

しかし、2022年以降はコアCPIが上昇に転じたことで両者の乖離が広がり、2024年以降は名目賃料が上昇する一方で、実質賃料は概ね横ばいで推移している。
従来の賃料上昇局面は、主として需給環境の改善に伴う市場の実力を反映した動きだと考えられる。しかし、今回の名目賃料の上昇が、市況の回復によるものなのか、それとも単に物価上昇を反映したものであるか、あるいはその双方の要因が混在しているのかについては、慎重な分析が必要である。少なくとも、実質ベースでの賃料が上昇していないという事実は、市場の回復が力強さを欠いている可能性を示唆している。このように、オフィス市場における賃料変動を評価する際に、従来の需給バランスに加え、物価動向についても考慮に入れることが重要になっている。
インフレが常態化している米国では、賃料は景気循環や賃貸市況の変動に応じてサイクルを描きながらも、長期的には物価に連動するかたちで上昇してきた(図表3)。

今後、日本においてもインフレが定着すれば、米国と同様に、物価の上昇トレンドに沿った新たな市場サイクルが形成される可能性がある。日本でも、名目賃料の上昇率がインフレ率を上回るか否か、さらには賃料水準が過去のピークを更新するかどうかが、オフィス市場がインフレ環境に適応しているかを判断する上での重要な節目となる。
インフレ時代における賃貸借契約:CPI連動条項とは
日本においては、インフレの恩恵を享受するためには、賃貸借契約の形態についても再考する必要がある。国内で一般的に用いられる賃貸借契約では、原則として契約期間を通じて賃料は一定であるため、期間中に物価が上昇した場合、その実質的な負担はオーナーが抱えることになる。期間内に賃料を改定することが契約上は可能な場合が多いものの、その際は借主と貸主による“協議”が必要となり、合意に至らなければ賃料の改定は実現しない。そのため、賃料が廉価な時期に入居したテナントが、その後も市場賃料を下回る水準で長期に渡り入居するようなケースもある。今後、インフレが持続的に定着した場合には、こうしたギャップがさらに拡大する可能性がある。
一方で、インフレを前提とした制度設計がなされている海外においては、既存テナントの賃料をCPIに連動させる等によって自動的に改定する条項を賃貸借契約に盛り込むことが一般的である。具体的な内容は契約によって様々であるが、基本的な考え方は、インフレ環境下において賃料の実質的な価値を維持するため、インフレに合わせて賃料を機械的に変更するというものである。
日本国内においても、契約期間が長期に及ぶ物流施設では、CPI連動条項の導入が進みつつある。物流不動産に特化したREITであるGLP投資法人では、ポートフォリオ全体の62%でCPI連動条項を導入しており、インフレ対応に向けた取り組みを進めている(2025年2月末時点)。
オフィスにおいても、CPI連動条項の導入に向けた検討が活発化している。現時点では、CPI連動条項を実際に導入した事例は非常に限られているが、大企業や外資系企業を中心に、CPI連動条項に関する交渉が各所で進められている。
CPI連動条項のポイント
国内においては、まだCPI連動条項の導入事例が少なく、多くのオーナーやテナントにとって馴染みの薄い制度である。また、日本の賃貸借契約における慣行は欧米諸国と異なる点が多く、海外の事例をそのまま適用することが必ずしも適切とはいえない。したがって、米国等の事例を参考にしつつも、日本のオフィス市場に即した制度設計が必要である。
以下では、CPI連動条項の導入にあたって、留意すべき5つのポイントを整理する。
1.連動指数の種類
CPI連動条項では、どの物価指標に賃料を連動させるのかが重要となる。理論上は、CPIに限らず、企業物価指数や金利、建設工事費等、他の指標に連動させることも可能である。ただし、海外においてもCPI以外の指数を用いることは稀であり、国内で先行して導入が進められている物流施設のCPI連動条項でも天候等に伴う変動が大きな生鮮食品を除いた物価指数であるコアCPIに連動させる方式が主流となっている。
なお、指数連動と異なる方式として、毎年一定率の賃料を引き上げる固定レート方式もある。インフレ率が安定している国では将来の見通しが立てやすい固定レート方式を採用することが多い。日本においても、初期費用を抑えることを目的として段階的に賃料を引き上げる「段階賃料」を導入する事例は存在するが、従来はインフレ対応を目的としたものではなかった。今後、海外同様に、インフレ率を想定した固定レート(たとえば年2%)を前提とした段階賃料の導入が広がる可能性もある。
2.改定幅の算出方法
賃料の改定幅をどのように算出するかについても多様な方式がある。たとえば、改定幅を直近1年間の指数変動率にもとづいて算出する方法のほか、過去数年間の平均変動率を基準とする方法や、軽微な変動であれば改定を行わない方式も考えられる。いずれの場合においても、契約当事者間での誤解を防ぐため、数式を含めた明確な算定ルールの策定が不可欠である。
3.改定頻度
賃料をどの頻度で改定するのかも、重要なポイントである。改定の頻度を多くすれば、賃料をより正確に物価に追随させることが可能となり、双方の損得の偏りを抑制することができるが、事務負担が増大する。たとえば、契約初期の一定期間(たとえば契約期間5年のうち当初2年)の賃料は固定とし、それ以降は一定頻度(毎年、隔年等)で改定する等、フリーレント等の他の条件との整合性を確保しながら、柔軟に設計する必要がある。
4.変動幅の制限
CPI連動方式では、物価の大幅な変動がそのまま賃料の変動に直結するため、将来の収支見通しが不透明になるリスクがある。そのため、あらかじめ賃料の変動幅の上限(キャップ)や下限(フロア)を設定することで、大幅な賃料変動リスクを回避する手法がある。インフレが常態化している海外においてはフロアを0%、つまり賃料の引き下げは想定しないとする契約も少なくない。不確実性が高まっている経済環境下では、このような制限を設けることが、貸主・借主双方の予見可能性を高め、安定的な契約運営につながる可能性がある。
5.協議の有無
賃料改定時に協議を行うのか、自動更新とするのかも重要な点である。実効性および事務負担の観点からは、原則として物価指数に連動した自動改定が望ましい。ただし、CPIの変動率が一定範囲内(たとえば年±3%)であれば自動改定とし、それを超える変動が生じた場合には協議とするといった形式も現実的な選択肢となる。
おわりに
本稿では、インフレ時代におけるオフィス市場の動向について、実質的な動きを捉える重要性を示した。また、最近オフィス市場において急速に議論が盛んになっているCPI連動条項について、導入上のポイントを整理した。
オフィス賃料は実質的には上昇していない。しかし、空室率は低下傾向にあり、需給は引き締まりつつある。また、建設工事費が高騰してくるなか、今後供給が減少する可能性もあり、その場合には想定以上に需給がタイト化することもあり得る。今後、底堅いオフィス市況が続くなかで、貸し手優位の市場となれば、オーナーが賃貸借契約の主導権を強め、インフレ対応のためのCPI連動条項の導入が加速することが考えられる。
インフレ時代においては、オフィス市場の健全な発展を維持するためには、賃料を物価に連動させるメカニズムの導入が求められるだろう。CPI連動条項は、貸主・借主のいずれかに一方的な不利益が偏ることを防ぎ、賃貸借関係における経済的バランスを維持する手段として機能し得る。その導入にあたっては、インフレ耐性や予見可能性、そして事務負担のバランスを適切に取った制度設計が求められる。とりわけ、制度導入の黎明期に当たる現段階においては、貸主・借主双方の公平性を意識し、条項内容を丁寧かつ慎重に設計することが必要である。CPI連動条項がオフィス市場に定着していくかどうかは、今後の制度設計と運用にかかっている。
参考:建設工事費の高騰も、賃料への反映はわずかに止まる
より広い観点からオフィス市場を捉える場合、賃料と建設コストの関係にも注目する必要がある。深刻化する人手不足や資材価格の上昇により、建設工事費が高騰しており、それに伴って開発計画を延期・中止する事例が増えている。この背景には建設工事費の上昇分が十分に賃料に転嫁できず、開発事業者の収益性の確保が困難になっているという課題がある。
この状況を把握する上で、建設工事費デフレーターを用いて賃料を実質化すると、2013年頃から名目賃料と実質賃料の乖離が拡大し、足元では2000年以降で最も低い水準で推移していることがわかる(図表4)。

これは、建設工事費の高騰が賃料に十分反映されていない現状を示しており、過去と比較すると、建設工事費に対して賃料が割安になっていることを表している。
インフレ時代では、物価上昇を踏まえて賃料のトレンドを見ることが重要であるが、オフィスビルの開発事業等、より広範な不動産ビジネス全体を俯瞰する視点に立てば、建設コストを踏まえた実質的な賃料に注目することで、市場の動向を適切に捉えることができるだろう。

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