亡くなった人の意思が記された遺言は、当人の死後法律的に保護され、原則その内容が尊重されます。法的に強力であるからこそ、遺言そのものの信憑性が揺らぐと家族を巻き込んだトラブルになることも……。円満に遺産相続を行うために生前できることを確認してみましょう。本記事では、FP相談ねっと・認定FPの小川洋平氏が遠野さん(仮名)の事例とともに、遺言書による遺産分割トラブルについて解説します。

献身的に母の介護を行ってきた長女だったが…

52歳の遠野薫さん(仮名)は、要介護状態の80歳の母と2人で暮らしていました。母の年金は月18万円であるものの、施設・他人に世話になることを嫌う母の意向で、毎日の食事、通院、トイレの介助と、すべてを薫さんが1人で担ってきました。

仕事を早期退職し、介護中心の生活に切り替えたのは2年前のこと。兄・辰夫さん(仮名)から「おふくろのことは任せた」と念押しされ、母の介護を引き受けました。それから薫さんは文句ひとついわず、淡々と日々をこなしてきました。

しかし、過労とストレスで倒れてしまい、1週間ほど入院することに。入院中も母のことが心配でならなかった薫さんでしたが、退院した直後に母は急に食事を摂らなくなり入院。そのまま亡くなってしまったのです。

バタバタと葬儀の準備を進めながら、これまでの介護の日々が脳裏をよぎります。もっとなにかできたんじゃないか……。誤嚥を恐れて何年も買ってこなかった母の大好物の軽井沢のパンを食べさせてあげればよかった、母の好きな芍薬をベッドサイドテーブルに飾ってあげればよかった、私が入院なんてしなければ最後にもっと一緒に時間を過ごせたかもしれない……。そんな後悔を抱きながら、無事に初七日を終えました。

その後、自宅で遺言書の内容を確認することに。母は生前に「自筆証書遺言書」を書いていたのです。薫さんを待ち受けていたのは非情な文面でした。

なにもしていない兄が母の財産をすべて相続?

遺言書には、「すべての財産を長男である辰夫に相続させる」と、はっきりと記されていたのです。

「冗談でしょう……。私、ずっとお母さんの面倒見てきたんだよ?」

薫さんの胸には怒りと困惑が渦巻きました。兄はこの2年間、実家にいながら介護も看病も母のことは薫さんと自分の妻にほとんど任せきりでした。納得がいきません。

母の財産は、築40年の自宅と、預金が約600万円。大金ではありませんが、葬儀費用や介護のために薫さんが自己負担した金額のことを考えると、相続分で少しでも補填したい気持ちがありました。

兄さん、こんなのあんまりよ」薫さんは兄を問い詰めましたが、「実家に残って母さんを見ていたのは俺だ」「俺が家を守るために金が必要なんだ」と兄は言い張り、遺言書の内容を盾にして一歩も譲る気配をみせません。

母が長男教だから?

薫さんはふと、ある不信感を抱きました。母は確かに昔の価値観に寄った考えを持っていました。幼いころから、娘である薫さんより辰夫さんのほうに甘い態度ばかりとっていたのを目の当たりにしていたのです。しかし、そうはいってもあれだけ生活を支えていた薫さんのことをこんな形で無下にするとはとても思えません「もしかして……。自分に都合のいい遺言書を母に書かせたのではないか?」。判断能力が衰え始めていた母に、兄が都合のいいように働きかけたのではないかという疑いを持つようになったのです。

「やり口が汚すぎる。絶対に許さないから……」薫さんはとうとう弁護士への相談を決意しました。

母の財産を受け取ることはできるのか?

弁護士からの回答は冷静でした。

「もし遺言書を書いた当時にお母様の判断能力が欠けていたと証明できれば、遺言の無効を主張することはできます。ただ、それを立証するのは極めて難しく、時間も費用もかかるのが現実です」

そこで、現実的な選択肢として「遺留分侵害請求」を提案されました。遺留分とは、たとえ遺言が別の内容を示していても、相続人とされる人に保証される最低限の取り分のことです。薫さんのような「子」であれば、法定相続分の半分、つまり遺産全体の4分の1に相当する額を請求することができます。

遺産は自宅が約1,500万円、預金が約800万円、合計で約2,300万円。遺留分として薫さんが請求できるのは575万円となります。この575万円を現預金の遺産から相続することができれば、建物は兄に、預金の一部は薫さんに、と丸く収めることができるでしょう。

内容証明を送った効果

弁護士が兄に内容証明を送ると、当初は突っぱねていた兄も相続登記を依頼していた司法書士に相談し観念したのか、「じゃあ、預金の全額を渡す」としぶしぶ応じてきました。

結果、本格的なトラブルになる前に解決できたものの、薫さんは兄の辰夫さんと疎遠になったといいます。

お金持ちだけの話ではない、相続トラブル

令和5年司法統計年報によると、家庭裁判所に持ち込まれた遺産分割調停の約75%が、遺産総額5,000万円未満のケースです。なかでも1,000万円未満が最も多く、「財産が少ない家庭ほど争いが起こっている」という実態があります。

相続は「お金持ちの話」ではありません。むしろ限られた資産だからこそ、財産の配分が感情のもつれを生み、泥沼の相続トラブルへと発展するのです。

今回のように、判断能力が低下する前に本人の意思を「エンディングノート」や「公正証書遺言」で残しておくことでこういったトラブルは生前に回避することができます。加えて、親族間であらかじめ相続についての話し合いを持ち、互いの役割や想いを明文化しておくことが、円満な相続への第一歩です。

「うちは仲がいいから大丈夫」「遺言や証書なんて、財産がある他所の家にしか関係ないこと」そう思った人こそ、ぜひ一度、相続を専門にするFPや弁護士、司法書士等の専門家に相談してみてください。なにも起こっていないいまだからこそ、未来を守る準備を始めることができます。

小川 洋平

FP相談ねっと

ファイナンシャルプランナー

(※写真はイメージです/PIXTA)