
映画『マルサの女』で有名になった国税局査察部(通称マルサ)。特定の税務署に設置される「特別調査部門(トクチョウ班)」はその登竜門ですが、トクチョウ班は案内板にも職員録にも記載されない“シークレット部隊”だと、元マルサで税理士兼住職の上田二郎氏はいいます。ピンク業界の脱税手法のひとつに、「ダミー申告」が挙げられます。他人名義で営業し、利益を影のオーナーが吸い上げるというもの。3年間は税務調査が入りにくいことを逆手に取ったスキームであり、短期間で稼ぎ、閉店して姿をくらます業者も少なくありません。こうした業界を監視するのが、いわゆる「トクチョウ班」。なかでも“ピンク担当”と呼ばれる調査官が目を光らせているのです。
調査の端緒は確定申告会場
筆者「接客業のようですが、広告宣伝費や福利厚生費の計上がありませんね?」
おじいさん「広告宣伝費? 福利厚生費ねぇ…?」
筆者「ホステスさんへの支払いもあるようですが、待機場所で出す飲み物や菓子なども経費になります。経費の計上漏れはありませんか?」
おじいさん「よく分からないから、これで申告書を作ってよ」
ふらっと確定申告会場に現れたおじいさん。どうやら初めての申告のようだ。トクチョウ(特別調査)部門の統括官だった筆者が事業内容を尋ねても要領を得ない。
おじいさんの書いた受付表と、持参した手書きの収支内訳書(収入と経費の明細)の筆跡が明らかに異なる点も気がかりだ。
収支内訳書には『ラブマシーン』と記載されており、ピンサロ(風俗営業の一種)の申告のようだが、その風貌からは経営者には見えない。誰かの指示でダミー申告をしに来たようだ。
電子申告に埋もれる調査官の「感性」
電子申告が普及し、納税者との対面機会が減った今でも、調査対象の選定は熟練調査官の「勘」による部分が大きい。AIでは見抜けない情報を人間の「感性」が掴むのだ。
今回の調査の端緒は、確定申告会場にふらりと現れたおじいさん。70歳を越えていると見えるその男性が、ピンサロを新規出店したとは考えにくく、しかも収支内訳書の内容すら理解していない。
収支内訳書には売上2,500万円、そこからホステス報酬1,250万円、地代家賃240万円、水道光熱費120万円、通信費48万円、雑費72万円を差引いて残った利益が500万円と記載されているが、ホステスの源泉徴収もしていない。計上額はラウンド数字(1,000円未満切り捨て)で、各勘定科目の金額こそ違っているが、利益は2年分とも同額の500万円。いかにもいい加減な申告に見える。
おじいさんは、日焼けした手に黒く汚れた爪。明らかに土仕事をしていたような風貌で、ホステスを雇って接客業を営む人物には見えない。染み付いたマルサのクセがおじいさんを観察し、次第にジグソーパズルのピースがはめ込まれていく。
筆者の直感は「ダミー申告だ」と告げていた。おじいさんが帰った後に提出されたはずの確定申告書を探すが見つからない。会場で作成した確定申告書の納税額は2年分で約100万円。どうやら思ったより税金が高かったようで、当日は持ち帰ったらしい。
それから2か月、ゴールデンウィーク明けに見つけ出したおじいさんの確定申告書の納税額は5分の1に減っていた。影のオーナーの指示で納税額を減らしたのだろう。
「2年ごとに経営者交代」の実態
即座に調査対象に選定し、店舗の外観調査を開始。店を見れば年間利益の見当がつく。店は駅から10分のさびれた歓楽街にあるピンサロで、ラブマシーンの看板は昼間から派手なネオンを放っていた。周辺に数件の風俗店があって、時折、日刊タブロイド紙にも紹介されている。 しばらく周辺を歩きながら眺めていたが客は入らない。都会のピンサロと違って昼間の客は少ないのかもしれない。立ちんぼうでは客引きに警戒されてしまうため、夜を待って商況調査をすることにした。 ピンサロの張り込みは客引きが警戒するため難しい。彼等が配置されているのは単に客を引くだけではなく、店にとっての不審者をいち早く発見するためでもあるのだ。マルサなら張り込み専用のトクシャがあって遠方から監視できるが、税務署にそんなものはない。 夜になるまでは情報収集に徹した。ピンサロを所轄する税務署でビルの所有者を調べると、店は6年前から田中(仮名)が借りていた。そして、店舗情報や電話、電気、ガスなど公共料金の契約者を調べると、すべて田中が契約者だったことから実質経営者と判断した。 さらに調査資料を丹念に拾い上げて申告状況をトレースすると、店名と申告者が2年毎に変っていることが判明した。都会のピンサロと違って税務調査に対する防備が甘いようだ。店の又貸し以外、経営者が変われば店舗契約者も変わるはずだ。さらに調査を進めると、おじいさんは田中の内妻の実父であることが判明した。
申告状況を整理すると、X1年・X2年分は田中が都内の税務署に店名『ラブレボリューション』で申告し、X3年・X4年分は内妻が「勝村」(仮名)で千葉県下のA税務署に店名を『ピンクゾーン』で申告する。そして、X5年・X6年分をおじいさんが「勝村」(仮名)で、千葉県下のB税務署に店名『ラブマシーン』で申告していた。 田中の内妻の筆跡には見覚えがあった。おじいさんが相談会場に持参した収支内訳書に書いてあった丸い字だ。2年毎に店名を変え、申告者も提出先も変えている。これでは調査対象に上がることはない。これまでの調査状況は下表のとおりだ。
収支内訳書の文字は、内妻が記載したとみられるものと一致していた。
管轄区域という見えない壁
ダミー申告の実態がくっきりと浮かび上がった。2年毎に開廃業を繰り返し、税務調査から逃れる手法で、申告納税制度の担保である調査を受けない前提で提出する申告書が、正しい利益を反映しているとは考えられない。 廃業して帳簿や書類を破棄してしまえば、調査で利益を確定することは難しい。田中は毎年、お慰み程度の所得税を納めていたが、店舗状況からこの程度の利益であるはずがない。 また、この手法によって消費税からも永遠に逃れることができる。現在の消費税法は改正されて抜け道の一部を塞いだが、個人事業者は開業して2年間は、原則的に消費税の課税事業者にはならなかった。 次はネット情報を収集して関連店舗を絞り込んでいく。警察や保健所を調べて情報の精度を高めていくと、田中がピンサロ3店舗、デリヘル2店舗を経営していたことが判明したのだが、情報が古くて現在の稼働状況が分からない。 ダミー申告の脱税である確証は掴んだのだが、ピンサロの店舗も田中の自宅も管轄区域外にあって、トクチョウ班には調査権限がない。マルサなら手続きを踏めば日本中どこでも強制的に踏み込めるのだが断腸の思いだ。調査官たるもの、見つけた端緒は自分で刈り取りたいと願うものだが、管轄区域の壁が大きく立ちはだかっていた。 さらに情報を収集していくと重要なパズルのキーが見つかった。田中が確定申告した都内の税務署(X1~2年分)の調査資料に、国税庁に通報されたタレコミがヒットしたのだ。情報提供者はS。携帯電話番号も記載してある。 タレコミには『田中の申告は正しくない。店名と申告者を毎年のように変え、税務署の目を欺いている。ピンサロの売上は1日30万円を超えるが、ほかにピンサロ2店舗とデリヘルを経営している。必要なら売上帳のコピーを提供できる』とあった。 携帯電話の調査からSが利用者であることが判明し、田中が提出した収支内訳書の給与賃金欄にSの名前があった。なんと、Sはピンサロの元従業員だったのだ。 さらに調査を進め、田中が新築の一戸建てを購入していたことも判明した。周辺相場から購入額は5,000万円と推定される「タマリ」の一部だ。タマリとは蓄積した裏金のことで、タマリが真実の脱税者を示す道標になる。 結局、ここまで調べ上げてもトクチョウ班に調査権限がなく、重要資料を作成して所轄署の調査に託すしかなかった。「情報を上手に刈り取ってくれ」との願いを込めて重要資料せん(赤紙)を送った。 数ヵ月後、A署が田中の調査に着手したとの連絡が入った。調査は苦戦していると聞こえてきたが、事案発見の端緒になったおじいさんは、調査官の追及に「悪いこととは思いましたが孫がかわいくて名前を貸してしまいました」といっていたとのことだ。
上田 二郎
元国税査察官/税理士

コメント