
良質なシナリオを持つゲームを楽しみ、プレイングのあいだに隠された真相を読み解く連載企画「ゲームシナリオの深層」。第2回は『デス・ストランディング2』を取り上げる。
(関連:【画像】小島秀夫監督の筆致が冴えわたる『デス・ストランディング2』)
※本稿には『デス・ストランディング』『デス・ストランディング2』のネタバレを含むため、未プレイの方はご注意いただきたい。
小島秀夫監督率いるコジマプロダクションの華々しいデビュー作となった『デス・ストランディング』の発売から6年。『デス・ストランディング2』(『DEATH STRANDING 2: ON THE BEACH』)がついに日の目を浴びた。
「生と死」という重苦しいテーマを扱いながら、配達によって人々を繋いでいくという地道なゲームプレイが軸となった前作は、世界中のゲーマーの度肝を抜いた。コロナ禍を予見したかのような設定や、安部公房を軽やかに引用する衒学的でハードSFチックなシナリオも話題になった。
前作の11カ月後から始まる『デス・ストランディング2』は、前作同様に物語上のフックがとても多く、どの角度から切り取るかによってまったく感じ方が変わってくるゲームだ。ときに現代社会が抱えている問題を風刺し、ときに突拍子もないSF設定で我々を煙に巻く小島秀夫の筆致は、本作でも相変わらず冴えている。
筆者は、前作が“絶滅の回避”というわかりやすいカタルシスを描いてしまったがゆえに、続編があの時の衝撃を超えられるかは難しいところではないか……? と思っていたが、蓋を開けてみると、前作のシナリオなど大したハードルではなかった。
「我々は繋ぐべきだったのか?」というキャッチコピーの通り、人が人と繋がる際に起きる摩擦といった卑近なテーマから、どんどん賢くなっていくAIというホットで大きなテーマまで、読み飛ばすわけにはいかないものがギュッと詰まったコンテンツだった。
はたして『デス・ストランディング』でサムが作りあげた“繋がり”は正しかったのか? 『デス・ストランディング2』はその点についてどう描いたのか? いくつかのテーマに分けて論じていきたい。
まずは簡単にプロローグを書いておこう。北米大陸をカイラル通信で繋ぎ、ラスト・ストランディング――絶滅を回避したサム・ポーター・ブリッジズは、ともに旅をした赤子ルーとともに、人目を避けて穏やかに暮らしていた。そこに、フラジャイルがやってくる。彼女は跳ね橋部隊という組織に属しており、未だにデス・ストランディングやBTに怯える他国をカイラル通信で繋げてほしいとサムに協力を要請してきた。
かつてのように、メキシコやオーストラリア大陸を繋げていくなかで、多くの真実を知っていくサム。「我々の独断で世界をひとつに繋げていくことは侵略行為なのではないか?」という思いを抱えたまま、ひとつ、またひとつと拠点を繋いでいきつつ、ビーチから舞い戻った強敵ヒッグスや、バンダナ姿の謎の男との戦いに身を投じていく。
■直線的な物語に絡む多重のメタファー
本作は、ゲームプレイも物語の構造も、前作とそこまで変わってはいない。人類という種の存続が危ぶまれている世界で、配達という地道な仕事を通して小さなつながりを得ていき、ときにそれを壊そうとする脅威に立ち向かいながら、最後はとても狭い家族関係の話で幕を閉じる。構造だけを剥き出しにすると、割とどこにでもあるブロックバスター映画のようなシンプルさだ。
本シリーズを複雑にしているのが、メタファーである。
キャラクターの名前、ガジェット、地名、色使い、セリフ、仕草……どこを取ってもダブルミーニングを感じさせるつくりになっている。「メタルギア」シリーズもそういう作風だったが、あちらはあくまで史実がベースだったこともあり、本シリーズからはよりいっそう意味と意味をブリッジさせまくっている。
strandingという語も、配達による連帯感、母と子をつなぐ臍帯という意味に加えて、(死者の)座礁というニュアンスもある。この程度の言葉遊びなど、小島監督からすれば朝飯前だろう。
たとえば、忽那汐里が演じているレイニーというキャラクターがいる。癒しの雨を降らすDOOMSだが、能力を勘違いされてコミュニティを追い出されてしまった。跳ね橋部隊が彼女をスカウトしてから、土地の緑化などの仕事を与えられて役目を得るが、そのお腹には妊娠7カ月で成長が止まっている赤子がいる。
「時雨」というゲーム内の仕掛けを突破できる能力を持ったキャラクターだが、普通のゲームならそれだけで役目は終わりだろう。しかし、本シリーズはひとりのキャラクターにいくつもの要素を担わせる。
彼女が成長の止まった子を抱える妊婦であることで、スティル・ベイビー症候群というゲーム内設定が語られる機会がある。それはもちろん、現実社会の少子化問題のことでもあるし、本シリーズがあらゆる角度から描く人類の絶滅にも関わっている。
いまだ母ではない母のレイニーは、死者たちの世界から座礁してきた少女・トゥモロウの代理母として振る舞う。疑似家族的なワイワイした空気がDHVマゼランの船内に広がり、プレイヤーはほっこりしていくなかで、ルーを失ったサムだけが力なく笑っているのだ。
■前作を超えた、さまざまな“家族”の描き方
前作は、アメリが超常的な存在だったことや、重要人物が全員家族関係にあったというなんともセカイ系チックなオチだったのに対して、本作は(人物配置の点や、情報の出し方はほぼ同じではあるものの)より多角的に“家族”というものを捉えていたように感じた。
先述した通り、跳ね橋部隊の疑似的だが温かい家族関係はわかりやすく素敵だ。その一方で、脳死母や人柱BBなどといった反吐が出るほど邪悪なSF設定も登場するし、タールマンやドールマンの逸話のようなわかりやすいドラマもあるし、サム/ルーシー/ニールの危険な三角関係も用意されている。
しかも、これだけ濃密かつ複雑なSF展開でプレイヤーの頭を沸騰させておきながら、彼ら3人+お腹の赤子が織り成すトレンディドラマじみた擦れ違いが、メインプロットとして最後まで残されているのもちょっと笑ってしまったほどだ(むしろこれぞSFらしいとも言えるかもしれない)。
さまざまな家族が登場するという意味では、まさしくこの点においても家族関係が多様化している現代社会の写し鏡として機能しているようにも見えてくるが、その一方で、結局のところ、サムが我が子を認知してようやくまともな父親として出発できただけの、実はかなり卑近で古典的なお話だったんじゃないか、とも思えるラストだった。
■繋ぐべきであったものと、繋ぐべきでなかったもの――APAS4000とヒッグス
あらためて「我々は繋ぐべきだったのか?」というのが本作のキャッチコピーだ。繋ぐべきでなかったものが何だったのかという話だが、これはシンプルに「APAS4000」と「ヒッグス」のことだろう。もちろん、それらが何を表しているかについてはよくよく見ていく必要があるが。
APAS4000は筆者が本作でもっとも痺れた設定だ。あまりに面白すぎて鳥肌が立ったくらいだ。
単に、最初のシーンでフラジャイルがこの設定を語りだしたときは、これも『メタルギアソリッド4』の「SOPシステム」的なものに過ぎず、せめて昨今の生成AIや大規模言語モデルなどのメタファー程度のものだろうと思ってしまった。
しかしながら、小島監督がただAIをそのまま出しただけで終わるはずもなかった。ビーチでザ・プレジデントと対話をするシーンは、本作の白眉である。
昨今、AIを取り巻く話題はお茶の間にさえのぼり、まるで「ターミネーター」シリーズのスカイネットのように、人類はAIによって仕事はおろか尊厳さえ奪われるのではないかという話がまことしやかに囁かれている(現行のAIモデルが近いうちに人類を滅ぼすと本気で信じている人は少ないかもしれないが)。
そんなSFじみたビジョンを共有している現代人が多くいるなかで「我々が人間を統治する」とAIに宣言されるだけでは、もはや80年代の映画にすら劣るプロットだ。よって小島監督は、ここに自らが6年前に作り上げた壮大な伏線である死者の国――ビーチを外挿したのである。
本作においては、魂は物体として観測できる状態(DOOMSにとっては)で存在していながら、多くのSFと同じように集合的無意識の役割もある。オバケとAIが結びついたら、こんなことを考えるんじゃないか? という無邪気な発想だが、それゆえにワクワクする。
仮にそのアイデア自体は「攻殻機動隊」シリーズなどで見たことがあるとしても、ビーチに大量の墓石兼サーバーが並んでいる光景はあまりに美しく、ぐうの音も出ないほどだった。このビジュアルによる圧倒的なまでの説得力は、ゲームをクリアしたプレイヤーだけが体験できたものだろう。
そして、今を生きる生者のわがままでその冷徹な理屈を跳ね返すのも、エンタメらしい勢いがあって素晴らしい。
一方で、筆者がもっとも見ていて辛かったキャラクターはヒッグスだ。小島監督流のおふざけでギタリストとして蘇った彼だが、前作以上に賛成しかねる理由でサムたちに襲い掛かる。
序盤の暴挙で充分すぎるくらいにプレイヤーとサムからのヘイトを買う彼は、その勢いのままずっと我々を挑発し続ける。それしか生きる糧がなく、そのままエンディングまで道化を演じ続けるのだ。
正直に「復讐」という言葉を多用するあたりも、一昔前のエンタメに出てきた魅力的な敵役というより、昨今話題の“無敵の人”みたいな悲痛さがある。最後に申し訳程度に心情を吐露するのが、また小物らしさに拍車をかけている。
パロディにパロディを重ねたラストバトルによって彼の魂は浄化されたのだろうが、正直クリフやニールほどの必死さはなく、それゆえに直視できない辛さがあった。今作においても、不寛容な人間に寛容になる必要はないとわからせてくれるボスキャラクターだった。
■むすび
本作をどう捉えるかは難しい。諷刺か、トンデモSFか、それともベタな愛や家族の物語なのか、もしくはいきなり挟まれるダンスシーンが肝なのかもしれない。
しかしながら、本シリーズによって小島監督の作家性によりいっそう磨きがかかったのは事実だ。“配達”をメインに据えたシンプルなゲームなのにも関わらず、人類が有史以来移動し続けてきたという壮大なヒストリーを感じさせてくれたり、かと思えばひとつひとつの仕事をチマチマとこなす有意義さを教えてくれたりもする。
文学、映画、ドラマ、現代思想……ビデオゲームの外に置かれがちなテクストを多様に盛り込み、我々ゲームオタクに今考えるべきテーマについて教えてくれる彼の作品から、まだ目を離すわけにはいかないようだ。
(文=各務都心)

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