
凡人と賢人 失意と没落への自己認識
ロレンス・ダレルの大作『アレクサンドリア四重奏』は、地中海沿岸の国際都市アレクサンドリアを舞台とする華やかな愛欲の錯綜する様を描いた長編四部作。この小説の片隅に詩人カヴァフィスが登場する。詩人は19世紀末から20世紀前半に地味な小官吏として生きたギリシャ人だが、午前中の職務のせいで、自由を楽しむ時間に恵まれていたらしい。カヴァフィスはアレクサンドリアに生まれ、ほとんどエジプトのこの地で暮らし生涯独身だったという。彼は個人としての感情にひたりながら、その反面、集団意識のひそむ古代人の資質がしみついており、それが歴史的な見方を支えていた。「もし詩人でなかったら自分は歴史家になっていただろう」と語っているほどだ。
カヴァフィスが目を向けるのはギリシャの過去、とくにアレクサンドリアの過去であるが、古代の出来事が常識であるかのように描写されている。たとえば、「クレオパトラの子供らを見せるためにアレクサンドリアの民が集められた。カエサリオーンとその弟たち、アレクサンドロスにプトレマイオス……」と歌えば、カエサルとの一子およびアントニウスとの二子があてこすられ、茶番劇が語られる。ついでに、カエサルを話題にする原題「三月のイデス」では、群衆のなかの男が手紙をたずさえて「これを今すぐお読み下さい。御身に重大なかかわりのあることです」と早口に言う場面がある。イデスは一か月のまんなか、三月なら十五日、カエサルが暗殺された日を忘れてはならない。
歴史そのものを生きても結果を知らないというのは皮肉であろう。だが、想像力を働かせれば、効果もある。西リビアから来た王子は、「何よりもかれは寡黙だった。そのせいで彼は深遠な思想の人と見なされた。そういう人は多くを語らないものだから。……実はただの平凡な、つまらぬ男に過ぎなかった。野蛮なギリシャ語を口にするようなへまで自分のよき印象を損なうまいといつも戦々恐々としていた」から、言いたいことにあふれていたのに。
ところで、統一国家のなかったギリシャ人は、各地に植民地を設けて拡散しがちだった。しかも、カヴァフィスには同性愛者というひけ目があった。夜ごと少年たちのたむろする曖昧宿に出かけていたという。博打で六十ポンドをかせいだ友人が来ると、二人で悪の館に行った。「寝室を一つ借り、高価な飲物を買い、また飲んだ。朝の四時に近い頃、その高価な飲物を空にして、二人は幸福な愛に身をまかせた」という。さらに、詩人は老いるにつれ、官能にあふれた青春の日々を懐かしむ。「時おりは夜戻ってきてわたしに憑(つ)いておくれ。唇と肌が思い出す時に……」と臆面もない。
カヴァフィスという詩人には、自分たちの資質に期待しても、結局はそうはならないという失意感が流れている。それは凡人の哲学ともいえるのではないだろうか。
八十年ほど下るが、戦後イタリアにも巨大な知性をそなえた思想家がいる。哲人マッシモ・カッチャーリは、欧州がいかにして自らを「ヨーロッパ」と同定するようになったのかの解読を試みる。しかも、中世・近代・現代を論じても、大半は古典古代のテクストに準拠しており、ギリシャの詩人とイタリアの哲人が奇妙に重なって見えてくる。
ところが、地理哲学の用語からすれば、「詩人とはヨーロッパをアジアから永遠に切り離す不倶戴天の敵のことである」となるらしい。そもそも、多くの島々が浮かぶエーゲ海とイオニアは、太古から途絶えなくつづいていた攻撃と復讐あるいは暴虐の有為転変があっても、オリエント(東方)とオクシデント(西方)との敵対関係などありえなかった。ペルシア帝国をとりあげたヘロドトスにおいて初めて、海の向こう側に本物のアジアが形姿され、分裂の問題が浮上したという。しかし、その四十年前に、アイスキュロスの悲劇『ペルシア人たち』が分裂ならぬ区別の繋がりという筋書きが見えていたらしい。
今日、ヨーロッパの知性は世界を独占しているかのように見える人々がいる。だが、それはとてつもない錯覚であり、今やどんなプロジェクトも形をなさず、侵犯すべき境界も存在せず、あらゆる領域的一体性も崩れ去ってしまった。もはやヨーロッパは没落を怖れており、それを外から降りかかってきた運命と受けとめている。ヨーロッパに下された決断は、自分自身が没落しつつあり、没落を欲さざるをえないとの自己認識であるのだ。ここには賢人の哲学が息づいているかのようだ。
古典古代という原点に立ち返って現今を考える。卓越した詩人と哲人ならではの教唆には頭が下がる。

『ヨーロッパの地理哲学』(講談社)著者:マッシモ・カッチャーリ
【書き手】
本村 凌二
東京大学名誉教授。博士(文学)。1947年、熊本県生まれ。1973年一橋大学社会学部卒業、1980年東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。東京大学教養学部教授、同大学院総合文化研究科教授を経て、2014年4月~2018年3月まで早稲田大学国際教養学部特任教授。専門は古代ローマ史。『薄闇のローマ世界』でサントリー学芸賞、『馬の世界史』でJRA賞馬事文化賞、一連の業績にて地中海学会賞を受賞。著作に『多神教と一神教』『愛欲のローマ史』『はじめて読む人のローマ史1200年』『ローマ帝国 人物列伝』『競馬の世界史』『教養としての「世界史」の読み方』『英語で読む高校世界史』『裕次郎』『教養としての「ローマ史」の読み方』など多数。
【初出メディア】
毎日新聞 2025年3月1日


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