長年働き続けた人へのご褒美である退職金。それで自分へのご褒美や、夫婦の夢を描く人も多いでしょう。しかし誰もがそんな思いを形にできるわけではありません。なかにはとんでもない結末を迎えるケースも。

老後、夫婦の共通の夢は「地中海クルーズ」

大手メーカーで60歳定年を迎え、その後、再雇用制度を利用し、契約社員として5年働いた鈴木誠一さん(65歳・仮名)。定年で仕事を辞めなかったのは、年金受給までの5年間、無収入になることへの不安から。

「結婚以来、波はあったものの、将来のためにとコツコツと貯金をしてきた。つまり、ずっとお金は増え続けてきたんです。しかし収入がなくなれば、貯金は減っていくばかり。そんな状況に大きな不安を覚えました」

仕事一筋で頑張ってこれたのは、妻・佳子さん(仮名・63歳)の支えがあったから。さらに5年、力になってもらうことに、少し引け目を感じていたといいます。

「年金を受け取れるようになるまで、あと5年、仕事を頑張ろうと思うんだ」という誠一さんの背中を、佳子さんは力強く押してくれたといいます。

現役時代、遠出といえば、お互いの実家への帰省くらい。気の休まる機会などなかっただろう佳子さんに「仕事を辞めたら、パァーと遠くに行こう! クルーズ旅行なんていいんじゃないか。仕事をしていたら、絶対にいけないだろう」と提案した誠一さん。佳子さんも「そんなこと言って大丈夫?」と呆れながらも、「そうね、地中海なんて憧れるわね」と笑ったといいます。

定年後、正社員から契約社員になったことで大幅に給与減、さらに誰でもできるようなサポート業務に仕事へのモチベーションが上がらないなか、なんとか頑張ってこれたのは、佳子さんとの約束があったから。

定年時に受け取った退職金2,500万円は、佳子さんとの夢のために1円も手を付けず残しておく――そう誓ってから5年。65歳を迎えて仕事を辞めたお祝いに、食卓には佳子さんが腕によりをかけた彩り豊かな料理の数々が並びます。しかし、食卓にはテレビの音と箸の音だけ。何とも重苦しい雰囲気が場を支配していました。

老後は順風満帆のはずだった…先輩の言葉が崩壊の引き金に

それは、先に65歳を迎え、会社を去る先輩の言葉が元凶でした。

「仕事を辞めたら年金だけになる。でも、それだけでは、とても贅沢などできないだろう? だから、結構頑張って増やしたよ、退職金」

退職金を増やすとはどういうことだろう……疑問に思った誠一さんは、具体的に何をしたのか、先輩に聞いたといいます。

先輩が語ったのは株式投資。特定の銘柄をいくつか挙げ、「俺はこれらで退職金が1.5倍になったよ」と成功体験を得意げに語りました。「でも、投資なんて危ないんじゃないですか?」 誠一さんが尋ねると「単に銀行に預けているのもリスクなんだぞ。物価が上がったらどうするんだ」と先輩は鼻で笑いました。

金融広報中央委員会『令和5年 家計の金融行動に関する世論調査[二人以上世帯調査] 』によると、60歳代の二人以上世帯では、平均2,026万円の金融資産を保有し、そのうち預貯金は885万円。株式に407万円、投資信託に190万円などと、さまざまな金融商品を保有します。もちろんこれは平均値なので、全員が預金以外の金融商品を保有するとは限りません。ただ、誠一さんの先輩が言った通り、金利が物価上昇率以上であれば、預貯金は目減りしてしまうことは確かです。

危機感を覚えた誠一さんは、退職金の運用を考えました。「佳子との老後のためだ」と言い聞かせて。

そして65歳を迎えた冒頭のシーンに戻ります。何があったかは、多くの人が予想する通り。最初は「お試しだ」と自分に言い聞かせ、退職金の中から300万円だけを投資に回しました。先輩に教えてもらった銘柄を中心に購入すると、数週間で面白いように利益が出始めます。含み益はあっという間に50万円を超え、誠一さんは興奮を隠せませんでした。「自分には投資の才能があるのかもしれない」と自信を深めた誠一さんは、すぐに追加で500万円を投資。相場全体が上昇傾向だったことも幸いし、資産はみるみるうちに増えていきました。

資産が順調に増えるなかで、誠一さんは「もっと増やしたい」という強欲が生まれていました。そしてリスクの高い信用取引にまで手を出してしまったのです。そこで起きたのは、株式市場の大暴落。昨日まで青色だった評価損益は真っ赤に染まり、信じられないスピードで資産が溶けていきました。「まずいぞ、非常にまずい!」と冷静さを失った誠一さんは、損失を取り返そうと躍起になるものの、ついには追い証の通知が届き、強制終了。莫大な損失が確定し、2,500万円あった退職金は、わずか300万円ほどしか残りませんでした。

誠一さんが受け取れる年金は月19万円。2年遅れて年金受給が始まる佳子さんは、月10万円。二人合わせて30万円弱の年金があります。佳子さんがコツコツと続けてきた貯蓄も、老後の安心を約束してくれるほどあります。老後資金において退職金は「万一のためのお金」という位置づけだった鈴木さん夫婦。退職金が大幅に減ったところで、老後が不安定になることはありません。

ただ退職金があるからこそ「地中海クルーズ」と言っていたわけですから、もはや中止以外に選択肢はないでしょう。パンフレットをいくつも集めて楽しみにしていた佳子さん。夢が夢のまま終わってしまった虚しさのなか、腕によりをかけた料理をいただく――何とも悲しい祝席になったといいます。

[参考資料] 金融広報中央委員会『令和5年 家計の金融行動に関する世論調査[二人以上世帯調査] 』

(※写真はイメージです/PIXTA)