1915年、暗い闇の中に沈んだ人物を描いた謎めいた3枚の絵について、ドイツの美術史家が論文で発表しました。これらを描いたのが、17世紀のフランス人画家・ジョルジュ・ド・ラ・トゥールでした。どうしてそれまでラ・トゥールの名は美術史から消えていたのでしょうか。

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文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

真作の発見に夢中になった専門家たち

 神聖で静謐な画風が日本でも人気の高い17世紀フランスの画家、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール。まず初めに美術史から一時期消えた理由と、多くの専門家たちが夢中になった、稀有な再発見のドラマを紹介しましょう。

 1915年フランスと敵対していたドイツの美術史家であり、バロック絵画研究の大家ヘルマンフォスは、学術雑誌に短い論文を発表します。そこには、フランスの2つの美術館が所蔵する作品が掲載されていました。ナント美術館所蔵の絵画《聖ペテロの否認》《聖ヨセフの夢》と、ル・ナン兄弟の作とされていたレンヌの市立美術館所蔵の絵画《生誕(新生児)》、そして版画《生誕(新生児)》です。

 深い闇の中に沈んでいる人物が、ロウソクの炎に照らされて浮かび上がるこれらの謎めいた絵を、フォスはラ・トゥールの作品として発表します。それまで一切、ラ・トゥールの名前や作品は、美術史に存在していませんでした。

 どうしてラ・トゥールは美術史から消えていたのでしょう。17世紀フランスの美術評論家ロジェ・ド・ピールの著書『絵画論』(1708年)をみると、レオナルド・ダ・ヴィンチラファエロなどを筆頭に、ルネサンスの画家には高得点がついていますが、カラヴァッジョには極めて低い点数がついています。当時、一世を風靡したカラヴァッジョでさえも低評価ということは、同時期のほかの画家たちはそれ以下の評価だったことが推測できます。

 今では巨匠と賞賛され、人気の高いオランダフェルメールスペインのエル・グレコ、そしてラ・トゥールなどもカラヴァッジョと同様に、これ以降の美術史から姿を消します。カラヴァッジョが再評価されるのはイタリアの著名な美術史家ロベルト・ロンギによって見出される20世紀初頭でした。フェルメールは19世紀、フランスの美術批評家トレ=ビュルガーによって再発見されます。そしてラ・トゥールの再発見は、この1915年ヘルマンフォスによる論文発表まで待たなければなりませんでした。

 当時、ドイツと敵対していたフランスフォスの論文は知られることはなく、ルーヴル美術館学芸員ルイ・ドモンフォスの発見の重要性を指摘したのは1922年でした。これがきっかけとなり、フランスはじめヨーロッパでラ・トゥールは一躍注目を集めます。

 美術史家や収集家、美術館学芸員、画商たちはラ・トゥール作品や資料の発見に夢中になりました。ドモンフォスの論文の存在を教えたのは、カラヴァッジョを再発見したロベルト・ロンギでした。ロンギはオランダ人画家でカラヴァッジョに影響を受けた、ヘラルト・ファン・ホントホルスト作とされていた《ランタンのある聖セバスティアヌス》(現在は模写とされる)を、ラ・トゥール作品と見るべきとだとしました。

 また、ルーヴル美術館は画商のヴィタル・ブロックからやはりホントホルスト作とされていた《羊たちの礼拝》を入手し、ベルリンカイザーフリードリヒ美術館は《聖女に介抱される聖セバスティアヌス(松明のある聖セバスティアヌス)》をラ・トゥール作品として入手します。

各国の争奪戦と日本の獲得

 ラ・トゥールがとくに広く知られるようになったのは、1934年にオランジェリー美術館で開催した「17世紀フランスの現実の画家」という展覧会でした。カラヴァッジョ派と静物画の画家たちの作品が展示されるとともに、当時知られていたラ・トゥールのほとんどの作品が出展され、大いに注目を浴びます。名だたる美術史家たちが天才画家の出現について熱く議論をし、画家について書かれている古文書の研究にも力を入れました。

 この展覧会後、ラ・トゥール人気はますます加熱し、アメリカなどヨーロッパ以外の国の美術館も興味を持ちます。なかでも1936〜37年にかけてアメリカを巡回した展覧会で、ラ・トゥールはアメリカ中の美術館関係者を魅了し、その作品を手に入れようとしました。

 1960年、《女占い師》がメトロポリタン美術館に展示されると、画家の署名入りのこの傑作がなぜフランスを離れたかと、フランス美術界では大問題になりました。当時の文化相アンドレ・マルローが《女占い師》の輸出が認められたことについて、議会で釈明したほど、フランス人は激しいショックを受けたのでした。また、《クラブのエースを持ついかさま師》も、1981年テキサス州フォート・ワースのキンベル美術館が購入して話題となっています。

 現在ではワシントンナショナルギャラリーが《鏡の前のマグダラのマリア》、ロサンゼルスのカウンティ・ミュージアムが《ゆれる炎のあるマグダラのマリア》、同J・ポール・ゲッティ美術館が《辻音楽師の喧嘩》、ニューヨークメトロポリタン美術館が《ふたつの炎があるマグダラのマリア》《女占い師》、サンフランシスコ美術館が《老人》《老女》、テキサス州フォート・ワースのキンベル美術館が《クラブのエースを持ついかさま師》など、計13点ものラ・トゥール作品の入手に成功しています。

 その後も再発見は続きます。ラ・トゥールの初期の作品とされる「アルビの聖人像」というキリストと12使徒を描いた13枚の連作があります。連作はフランス革命まで、フランス南部のアルビという町のサントセシル大聖堂に飾られていたことがわかっています。その後、《聖ヨハネ》と《聖バルトマイ》は革命中に行方不明となってしまい、また、《聖小ヤコブ》《聖ユダ(タダイ)》以外の9点は模作にすり替わってしまっていました。

 しかし1941年に《聖ピリポ》、1991年に《聖アンデレ》が発見され、現在、国立西洋美術館所蔵の《聖トマス》、および近年発見された《聖大ヤコブ》を加え、計6点が真作だとされています。

 1972年、オランジェリー美術館で開催された「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」という大規模な展覧会も、ラ・トゥール研究において大きな意義がありました。ラ・トゥールの復権と、作品の分析においても重要な展示だとされています。この展覧会以降、新たにラ・トゥール作とされた作品が増えますが、模作や共同制作、息子のエティエンヌの作だとされる作品もありました。そのため、現存する真作の数は研究者の間でも意見が分かれており、40点とも60数点ともいわれています。

 日本の収集家・石塚浩氏は1973年に《ヴィエル弾き》をイギリスの画廊から購入し、同じ年のクリスティーズのオークションに出します。これを購入したのはスペインのプラド美術館でした。翌年、石塚氏はクリスティーズに出品された《聖トマス》を落札。2004年、主任研究官の高橋明也氏が尽力し、国立西洋美術館がこれを獲得しました。先に紹介した「アルビの聖人像」連作の中の1枚です。

 また、1990年に富士美術館が《煙草を吸う男》をパリの競売で獲得しています。息子エティエンヌとの共同制作の可能性があるともされる作品です。

 2005年には国立西洋美術館において、日本初の「ジョルジュ・ラ・トゥール展——光と闇の世界」が高橋明也氏を中心に企画されます。真作のほぼ半数と、失われた原作の模作・関連作を含め、計30数点の作品群が展示され、入場者数は245,064人と大盛況を博しました。

 ラ・トゥール研究に貢献した日本人もいます。美術史家・田中英道氏は東京大学でラ・トゥールについての修士論文を書き、1969年フランスのストラスブール大学で博士論文を作成中、未公開作品《たいまつを持つ子どもたち》の存在を発表します。これを収集家のグランヴィル夫妻が購入、《ランプをともす少年》と呼ばれるようになったこの作品は、ディジョン美術館に寄贈されました。

 また、田中氏はラ・トゥールの全作品を「昼の情景」を描いた第1期と、「夜の情景」を描いた第2期に分類しました。「昼の情景」の多くは《ヴィエル弾き》や《豆を食べる人》など市井の貧しい人々や、《いかさま師》、《女占い師》など賭博の詐欺や窃盗の現場などを写実的に描いた風俗画です。

「夜の情景」の多くはロウソクランタンなどの光を効果的に使って、聖セバスティアヌやマグダラのマリアなど、キリスト教の聖人や聖女を描いた宗教画です。しかし、ずっと両方を描いていたのではないかという研究者もいて、いまだ謎が残っています。これについては第3回で解説し、次回はラ・トゥールの生涯について紹介しましょう。

参考文献
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 再発見された神秘の画家』(知の再発見双書121)ジャン=ピエール・キュザン、 ディミトリ・サルモン/著 高橋明也/監修 遠藤ゆかり/翻訳 創元社
『夜の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』ピエールローザベール/監修 ブルーノフェルテ/執筆 大野 芳材/翻訳 二玄社
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展ーー光と闇の世界』(2005年美術展カタログ)高橋明也、読売新聞東京本社文化事業部/編集 読売新聞東京本社
フランス近世美術叢書V 絵画と表象Ⅱ フォンテーヌブロー・バンケからジョゼフヴェルネへ』大野芳材/監修 田中久美子、平泉千枝、望月典子、伊藤已令、矢野陽子、吉田朋子/著 ありな書房
フェルメールの光とラ・トゥールの焔ーー「闇」の西洋絵画史』宮下規久朗/著 小学館
『西洋絵画の巨匠11 カラヴァッジョ』宮下規久朗/著 小学館
『もっと知りたい カラヴァッジョ 生涯と作品』宮下規久朗/著 東京美術
『1時間でわかるカラヴァッジョ』宮下規久朗/著 宝島
『国立西洋美術館名作集 深堀り解説40選』森耕治/著 アマゾンジャパン

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