
オダギリジョーが、主演・共同プロデューサーを務め、読売文学賞戯曲・シナリオ賞受賞の松田正隆による傑作戯曲を、気鋭の演出家・玉田真也の監督・脚本で映画化した「夏の砂の上」が全国公開中。第27回上海国際映画祭のコンペティション部門に日本作品で唯一招待され、日本映画として23年ぶりの快挙となる審査員特別賞を受賞した本作のティーチインイベントが7月14日に実施され、オダギリ、共演の高石あかり、玉田監督が登壇。映画の細部にわたる様々な質問に答えた。
■映画「夏の砂の上」あらすじ
雨が降らない、夏の長崎。幼い息子を亡くした喪失感から妻・恵子(松たか子)と別居中の小浦治(オダギリ)。働きもせずふらふらしている治の前に、妹・阿佐子(満島ひかり)が、17歳の娘・優子(高石)を連れて訪ねてくる。阿佐子は1人で博多の男の元へ行くため、しばらく優子を預かってくれと言う。
こうして突然、治と姪の優子との同居生活が始まることに。高校へ行かずアルバイトを始めた優子は、そこで働く先輩の立山(高橋文哉)と親しくなる。不器用だが懸命に父親の代わりを務める治との二人の生活になじんできたある日、優子は、恵子と治が言い争う現場に鉢合わせてしまう。
■オダギリジョー、長崎の夜景に感嘆
最初の質問は「ロケ地巡りを考えているのですが、おススメのスポットはありますか?」というもの。オダギリは「治の家のあったところが稲佐山という山で、そのてっぺんに展望台があって、そこからの長崎の夜景はすごくきれいでした」と語り、高石も「治の家自体も(実際に)あるので、必死に探していただくのも楽しいかもしれません」とコメントした。
続いて出たのは、治の家にあるこれまでの生活を感じさせる調度品について。特に居間の本棚に並んだ文庫に関して「どんな作家の作品で、治と恵子(松たか子)が読書好きという設定などもあったのか?」という質問に玉田監督は、「美術部の方とそういう話をしたわけではないんですが」と断りつつ「ああいうところにキャラクターが出ると思っていて、現代作家の小説も置いてある中で、船舶関係の本とか造船に絡んだ技術書も並んでいました。(スクリーンに題名は)映らないですが、そういう小さなところに俳優は影響を受けるし、それが画面にも出てくるので、そういうふうに美術の方がつくってくださったと思います」と以前、治が造船所で働いていたという設定に合わせて細部までつくり込まれていたことを明かす。
■顔を見せない構図に秘められた監督の意図
続いては、治がかつての同僚で、別居中の妻・恵子と関係を持っている陣野(森山直太朗)と恵子について会話を交わすシーンについて。カメラは終始、陣野の顔を捉え、治はガラスにぼんやりと映り込むという印象的な構図となっている。
その意図について、玉田監督は「陣野が目の前の治に対して感じている『この人、いったい何を考えてこれを言ってるんだろう?』という不安や不気味さをあのシーン全体で出せればいいなって思いました。”顔”ってすごく感情が伝わるんですよね。普通であれば、陣野と治をそれぞれ撮って、切り返しで見せるのがオーソドックスですけど、そうすると2人それぞれの顔から、何を考え、今何を感じているのか想像させられると思うんです。それを避けたくて、陣野だけを映し続ければ、陣野の感情――治に話しかけられて『何でこんなことをいま言われるんだろう?』『どうするつもりなんだろう?』、『どういうつもりでこれを言ってるんだろう?』ということがわかってくるんですけど、治は窓ガラスに映った虚像しかなくて、幽霊みたいにぼんやりしていて、陣野が治に感じている不安、この場から逃げ出したい雰囲気みたいなものが、ワンショットの中に出せるかなとああいうショットにしました」と2人の顔を交互に見せるのではなく、あえてこういう見せ方を選んだと説明する。
■オダギリジョー「劇場で見てほしい作品」
オダギリは、以前から舞台あいさつで“メジャー作品”と“ミニシアター系作品”がどちらも映画産業に必要であり、両者が並立することの重要性を語ってきたが、玉田監督のこの言葉に「まさにこういうポイントのことを言っていて、メジャーだとこういう表現は許されなくて『ちゃんとカットバックして治の表情を見せないと、わからない人にはわからないから』と止められて、せりふごとのカットバックになるはずです。でも、そこがこういうミニシアター系の作品の面白さであり醍醐味でもあり、“想像させる”ということがすごく大切。メジャー作品は“想像させる”よりも、“入り込ませる”ということなのか、わかりやすくつくらないといけない。どちらも否定することはないけど、僕はいろんなことを想像しながら見たいし、劇場で見るってことは、それができると思うので、こういうミニシアター系の作品は余計に劇場で見てほしいです」と呼びかけた。
玉田監督によると、ガラスを擦りガラスから治の姿が映り込むガラスに変えるなど、各スタッフの協力の下、綿密な打ち合わせを経てこのシーンは撮影されたという。高石はこのシーンには参加してないが「前日に話を聞いていて、スタッフさんがざわついていました。『本当に撮れるのか? いろんなことが重ならないと撮れないので、撮れなかった時のことも考えておきましょう』と話しているくらい、奇跡のショットだと思っていたので、試写を見た時、あまりに素敵に撮られていてびっくりしました」と明かした。
■「答えが出ない」映画の醍醐味
この日、劇場に足を運んだ観客に質問を募ると「この映画を観た後に、優子と治の2人がこの後、どういう人生を歩んでいくのか気になりました。(オダギリと高石は)演じてみて、2人がどのような人生を歩んでいくと思いますか?」という質問が出た。そもそも、治と優子が今後、再び顔を合わせることはあるのかということについて、高石は、現場で「スタッフさんの間でも(『再会する』or『しない』で)派閥ができていました」と明かし、その様子を見て「これが映画かぁ…とうれしかったです。一生、答えが出ないというのもいいなと思います」と語った。
オダギリは「聞いてみたらいいんじゃないですか?」と目の前の観客に多数決を取ることを提案。映画上映後のイベントならではの試みとなったが、高石が客席に向かって挙手を求めると、観客の間では「2人はいつかまた会う」と「きっともう会わない」の割合は7:3から6:4で、前者が優勢となった。
一方で、オダギリ、高石、玉田監督は少数派の「もう会うことはない」に挙手し、この結果に高石は「面白い」と興奮した面持ちを見せた。
■映画ではあえてカットしたやりとり
玉田監督は「会うだろうかどうかはわからない。それは、自分の人生でも、別れた人とまた会うかどうかは『わからない』としか言えない」と語った上で、本作の原作である戯曲では、治が優子に麦わら帽子を被せる別れのシーンで2人はいくつかの言葉を交わすが、映画ではあえて、それらの言葉のやりとりを全てカットしたと明かす。
オダギリは「あの別れのシーンも、(2人それぞれの顔ではなく)横のツーショットしか撮ってないんですよ。普通なら絶対にカットバックしないといけないシーンだし、僕ですら現場で『カットバックしないで大丈夫ですか?』って言ったんですけど、『いや、ここは引きで、客観的な目線で見てもらいたいので』と言って(カットバックを)撮らなかったんです。偉いなと思いました。撮っちゃうと使っちゃうので、撮らないのが正解だと思うんですけど…でも撮っちゃうんですよ、怖くて。よくがんばりましたね」と玉田監督の決断を絶賛した。
玉田監督は「もし撮っていたら、編集室で『これ使おうよ』となる怖さがありました。やってみたら、たぶんそれぞれの顔が良いから『いい顔が撮れてるな。使おうよ』となる未来が見えたので」とあえて撮らないという決断にいたる経緯をふり返る。
■高石「オダギリさんと交わした目線はいまでも忘れられない」
高石は「あのシーンの前に、(治に)水をかけるシーンを撮り終えて、あのシーンに臨んだんですが、私の中で、たくさん成長をさせてもらっていて、水をかけ合うところで、ほんの一瞬だけ掴んだ“何か”があって、その後、帽子を被せる前に『おじちゃん、ありがとうございました』とオダギリさんと交わした目線は今でも忘れられないです。自分の中で『うわぁ』って思っている顔をしていると思います。帽子のところもそうなんですけど、それ以上にその前の『おじちゃんにあいさつしな』と言われて、私が感じたオダギリさんとのつながり、目線は強い印象が残っていて大事なシーンです」と自身にとっても特別なものを手にしたシーンであることを明かした。
オダギリは、この高石の告白に「僕も役者として、なんでこういう話ができないのか?と反省してしまうと苦笑を浮かべつつ「きっと僕にもこういう生々しい瞬間はあって、それは映像にも収められているはずなので、自分でも再確認するためにもう1回、観たいと思いました」と語った。
■「ジワジワと体の中に入ってくるような“何か”がある映画」
高石は映画公開後からSNSで感想をチェックしていることを明かしつつ「いろんな感想が飛び交っているということがうれしいし、(この日のイベントで)それを直接聞けて、自分たちのことも話せるというのは、なかなかできないので、良い機会をいただきました」と感謝を口にした。
最後に玉田監督は改めて本作について「ジワジワと体の中に入ってくるような“何か”がある映画――すぐ『こうだったね』と感想を言えないかもしれないけど、そもそもそういう映画なのかもしれないと思います。自分の手持ちの言葉ですぐに感想を言わなくても、少し感じてくることあったら、その時に断片的でもいいので、感じていることを周りのひとに共有してもらえたらと思います」と呼びかけ、舞台あいさつは幕を閉じた。
※「高石あかり」の「高」は正しくは「はしご高」

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