
十分な資産は、必ずしも人を幸福にするとは限りません。むしろ、その資産の使い道や承継者をめぐり、新たな悩みや孤独感を生むことさえあります。本稿では、内藤英子さん(仮名)の相談事例とともに、老後における「お金の本当の使い道」について、ファイナンシャルトレーナーFP事務所の森逸行氏が解説します。
総資産3億円…お金を使わず増え続けるだけの日々
「通帳残高は増える一方。でも、連絡してくるのは金融機関くらい……」
68歳の内藤英子さん(仮名)は、そう呟きながら、少し寂しそうに笑いました。都内の分譲マンションにひとり暮らし。亡き夫が購入した物件でローンはなく、家賃もかかりません。加えて英子さんは、金融機関を定年まで勤め上げた堅実なキャリアの持ち主。年金収入は企業年金含め月25万円、不労所得が月50万円ほどあり、現役時代よりも可処分所得は多いというのが現実です。それでも、彼女の表情はどこか晴れません。
――理由は明確でした。お金を「使う相手も、使う理由」もないのです。
英子さんの総資産は、およそ3億円。株式・投信・現金などに分散されており、金融資産だけでも十分に余裕があります。しかし、日常生活は極めて質素。1ヵ月の生活費は12万円程度で、趣味や外出にはほとんどお金を使いません。
「物欲がないのではなく、使い方がわからない」そう語る彼女は、現役時代に培われた「節約・貯蓄こそ美徳」という金融マンとしての価値観をいまも引きずっています。さらに、夫も他界し、子どもや孫との関係も薄いとなれば、「誰かと楽しむ」「誰かのために使う」機会が激減し、結果として「お金が増え続けるだけの老後」になってしまうのです。
子や孫にも「必要とされない」増えるのは資産だけ
英子さんには娘が1人。その娘には5人の子ども、つまり孫が5人います。
「最後に娘から連絡があったのは、一番下の孫の七五三ね……」
普段から密な交流があるわけではなく、会うのは年1回程度。会話も形式的なものが多く、誕生日や行事のときだけ写真が送られてくる程度です。
「同族嫌悪っていうんでしょうか。娘とは性格が似すぎているせいか、昔からそりが合わなくて。娘も同じ思いなんでしょう。大学を卒業するなり、上京して家を出ていきました。この資産は将来的に娘に残すことになるけれど、誰ともつながっていない感覚があります」
英子さんはそう語り、手元の通帳をみせてくれました。たしかに数字は右肩上がり。でも、それが「安心や幸福」を意味するわけではないことを、彼女自身が一番よくわかっているようでした。
「なんのために」「誰のために」お金を使いたいか
お金を使わない、使えない、使う相手がいない。このような高齢者は実は少なくありません。FPとしてさまざまな相談を受けてきましたが、資産を築いた方ほど、“お金の使い方”に困ることがあります。
なぜなら、「将来のために」と長年蓄えてきた資産が、退職後も使わないまま残り続けるからです。しかし本来、お金とは「人生の選択肢を広げる手段」であり、「大切な人との時間を豊かにする道具」です。つまり「なんのために」「誰のために」使いたいのか――その問いに向き合うことが、老後のお金における本質的な備えとなります。
生きているうちに「想いを届ける」ことが、家族との絆になる
お金は、ただ遺すだけでは十分とはいえません。いま、生きているうちに、誰かのために役立てることこそ、資産を活かす大きな意味ではないでしょうか。
たとえば、
・孫の進学を応援するための教育資金の贈与・娘や孫たちとの家族旅行のプレゼント
・一緒に思い出を作るためのイベントや記念の食事会
・自身の想いを言葉にした遺言書や信託の設計
など、こうした「贈ることで生まれるつながり」「語ることで残る想い」があるからこそ、数字としての財産が、心を通わせる“生きた資産”へと変わっていくのです。
「お金はある。でも、心が満たされない」時代の老後
資産があっても心は満たされず、収入が増えても孤独感がぬぐえない──。そんな現実を抱える高齢者は、これからますます増えていくでしょう。相続や老後の課題は、単なる「お金の話」ではありません。それは同時に、「人とのつながり」や「人生の意味」にも深く関わるテーマです。
どれほど大きな資産を築いても、そこに共有する相手や、託す想いがなければ、それはただの数字にすぎません。英子さんはいま、そのことに気づきはじめています。そして少しずつ、「お金の本当の使い道」を考えるようになりました。その第一歩は、「誰と、どんな時間を過ごしたいのか」と、自分自身に問いかけることから始まるのかもしれません。
森 逸行
ファイナンシャルトレーナーFP事務所
代表

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