
充実した老後を送るための「終の棲家」として、有料老人ホームを選ぶことは有力な選択肢のひとつです。しかし、住み慣れた自宅からの環境変化が、時に心身へ予期せぬ影響をおよぼし、結果として大きな金銭的負担を強いられるケースも少なくありません。本記事ではAさんの事例とともに、高齢期の住み替えに潜むリスクと注意点について、FP1級の川淵ゆかり氏が解説します。
お見合い結婚の元公務員夫婦
Aさん夫婦は2人合わせて約32万円の公的年金を受給しています。もともとお互いが代々資産家の生まれということもあり、夫婦の資産は不動産も合わせると約3億円となっていました。
2人はお見合い結婚でした。所属する省庁は違いましたが、夫婦ともに元国家公務員。2人のお互いの親による勧めで始まった縁談です。家同士の経済的格差もなく、上手くやっていけるだろうと、交際期間も短いうちにとんとん拍子で結婚が決まりました。
それから、Aさん夫婦は2人の子をもうけます。2人の子は、Aさん夫婦が50代のときに、それぞれに家庭を持ち、いまではお正月くらいしか家族が顔を合わせることはありません。
Aさん夫婦は親から引き継いだ関東地方の郊外にある、広い一戸建てに長く住んでいました。Aさんは85歳、妻は83歳と健康面の不安を覚えはじめたタイミングで、老人ホームへの入居を検討しはじめます。いくつか施設を検討するなかで「終の棲家」として選んだのは、関東地方の高級老人ホーム。入居資金は約7,000万円、食費や管理費も合わせると月額費用は約30万円かかります。
入居まもない妻の異変
しかし、入居後、段々と妻の様子が不自然になります。Aさん夫婦はこれまで戸建てにしか住んだことがなく、老人ホームのようなマンション形式の部屋で暮らすのは初めての経験です。
Aさんの妻は神経質なのか、隣の部屋の住人が気になり、入居者が集まって行うレクリエーションなども苦手なようでした。朝食は2人でレストランで提供される食事をとることが多いですが、部屋にキッチンが付いているため、昼食や夕食は妻が自炊しています。そのため、朝食のあとは夫婦2人きりで部屋に閉じこもってテレビを眺めている日も少なくありません。
夫も知らなかった妻の“秘密”
妻は次第に元気がなくなり、落ち着かなくなってきました。「家に帰りたい」と突然泣き出すことも。夫が話しかけても沈みがちです。医師の診察では、環境が変わったせいだろう、とのことで、散歩や買い物など外に出て気分を変えることも勧められました。
そんななか、入居して3ヵ月も過ぎたころ、新しい介護スタッフが数人入ってきました。若い男性スタッフの一人をみるや否や、Aさんの妻は突然「マサルさん!」と叫びだし、急においおいと泣きだしてしまいました。
Aさんだけでなく、当然“マサルさん”ではないその若い男性スタッフもビックリ。
「僕はマサルではないし、奥様にお目にかかったことはございません」といいます。
Aさんにも“マサルさん”は心当たりがありません。
しかしその後、Aさんやスタッフの心配をよそに、Aさんの妻は化粧に力を入れだしたり、“マサルさん”を探し回ったり、追い回したりと人が変わったようになってしまいました。部屋で2人きりになったときも妻は物思いにふけってしまい、Aさんが話しかけても知らん顔をするようになりました。
「僕はマサルさんじゃありませんよ」と男性スタッフに何度いわれても、妻は“マサルさん”の手を握って離そうとしなかったり泣き出したりといった始末です。
スタッフにも迷惑がかかるようになったため、Aさんは妻の妹に相談をします。
まもなく80歳になろうとする妹さんはわざわざホームまで来てくれて、“マサルさん”の顔を確認すると、「あぁ、たしかにマサルさんにそっくりだわ」とつぶやきました。
「姉は18歳のころに、家に下宿していた大学生と恋仲になったんですよ。その大学生にあの人はそっくりですよ。当時はどちらも学生だったでしょ。家柄も違うということで、父親から猛反対にあったんです。お義兄さんにはいいにくいんですが、一時は駆け落ちも考えたみたいで。そのうちマサルさんは家からも追い出されてしまったんです。姉は思い込みが激しいというか、一途というか、その後もしばらくは大変だったんですよ。いまは18歳のころに戻ってしまったんですかね」
その後、“マサルさん”に確認しましたが、ただ似ているだけでやはり妻の初恋の人とは無関係のようでした。
わずか半年で高額老人ホームを退居した夫婦
環境の変化によって妻に認知症のような症状が現れてしまったことが負担となってしまったAさん。Aさん自身もホーム入居以降の妻の面倒を看るのには疲れ切っていました。入居前は物静かで落ち着いていたのに、人が変わったような有様です。精神的に不安定になり、どんなに優しく接しても夫をまともにみようともしない妻に苛立ちも感じていました。
また、“マサルさん”に執着する姿に、周りの入居者からも冷たい目で妻がみられるようになり、Aさんはいたたまれない気持ちに。結局、高級老人ホームは退居することを決心します。終の棲家での生活はわずか半年間足らずで終わってしまいました。
退居でいくら戻ってくるのか?
Aさんは、入居時に一時金として7,000万円を支払っています。施設によって返還制度は異なりますが、一時金のうち「未償却分」は返還されることになっています。
Aさんが入居した施設では、初期償却が20%(1,400万円)、償却期間が10年(120ヵ月)、という決まりになっていたため、初期償却のほか、次の計算による月次償却分が戻ってこないことになります。
・月次償却額:5,600万円÷120ヵ月=約46万7,000円 ・半年(6ヵ月)で退居:約46万7,000円×6ヵ月=約280万円が償却済みつまり、Aさんの返金額は、
7,000万円−初期償却1,400万円−償却済み280万円=約5,320万円となり、経済的な余裕があったとはいえ、大きな代償だといえるでしょう。なお、短期入居や将来の住み替えを考えている場合、一時金方式ではなく、月額利用料に上乗せして払う方法もあります。
この方式によれば初期償却は発生せず、短期で退居する場合に大きな負担はありません。しかし、月額費用は一時金方式より高くなり、長期入居の場合は総支払額が一時金方式に比べて高くなる危険性もあります。また、将来的に月額費用が上がるリスクもあるため、よく比較して考えることが重要です。
「終の棲家」選びの大きな落とし穴
Aさんは、まだ売らずに残っていた自宅に帰り、夫婦2人の生活に戻りました。Aさんの妻はだいぶ落ち着きましたが、それでもときどき意味不明の言動が見受けられます。
ですが、“マサルさん”のことは、もうすっかり口に出さなくなったそうです。
「自宅に戻って安心したんでしょうか。かなり穏やかにはなりました。いまは私も元気だし、訪問介護などを利用して看てもらっていますが、将来どうするかは息子たちと相談して決めます。ただ、僕は“マサルさん”のことは知りたくなかったですがね」
老人ホームなどへの入居をきっかけに、認知症の症状が現れたり、進行が早まったりするケースは実際に報告されているそうです。ただし、これは「認知症になる」というよりも、潜在的な症状が顕在化する、あるいは軽度の認知機能低下が急激に悪化するという形が多いといわれています。
環境が変わることで、「ここはどこ?」「どうしてここにいるの?」といった混乱が起きやすく、不安や混乱が強まる、長年の生活習慣が変わって脳がストレスを受け、認知機能の低下を招くなどの事例もあるようです。また、馴染みの人や地域とのつながりが断たれることで、心理的ストレスが増大し、症状が進行することもあるとのこと。いきなりの転居ではなく、ショートステイで住環境に慣らしたり、スタッフとの信頼関係を築いていったりするなど、段階的な適応が効果的となるでしょう。
川淵 ゆかり
川淵ゆかり事務所
代表

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