
この記事をまとめると
■日産は追浜工場におけるクルマの生産を2027年末で終了すると発表
■追浜工場はさまざまな名車を生み出してきており歴史のある工場だった
■ゼロベースで新たな工場建設に踏み切ることも不可能ではないと推測できる
追浜でクルマの生産を終えるという衝撃
2025年7月15日、日産は経営再建計画「Re:Nissan」の一環として、横須賀市追浜地区にある追浜(おっぱま)工場での車両生産を2027年度末に終了、日産自動車九州へ移管すると発表した。
日産の経営再建がニュースになるなか、すでに追浜工場の閉鎖という噂や観測記事が流れていたこともあり、世間的には驚きをもって受け止められるというよりも「やっぱりな」と感じた人が多かったかもしれない。
しかしながら、追浜工場における車両生産の終了というのは、けっして長年の既定路線だったわけではない。実際、その発表記者会見において、日産のイヴァン・エスピノーサCEOからは、「新型キックスの生産開始は予定どおり追浜工場で行い、九州工場に移管する」といった内容の発言があった。つまり、追浜を完成車工場として閉鎖するという判断は、ごく最近になって行われたと想像できる。
それくらい追浜工場を閉鎖する(車両生産をやめる)ことは想定外だったというわけだ。
なぜなら追浜工場は、日産における生産の最先端技術を投入するマザー工場という位置づけだからだ。追浜で磨き上げた生産技術をグローバルに展開するという役割を担っていただけに、その閉鎖を想像していた自動車業界人は少なかった。
そんな追浜工場の歴史は1961年10月に始まる。
国際水準の乗用車専用工場として作られた追浜工場のラインを最初に流れていたのは、セドリックとブルーバードだった。そう、最初から追浜は混流生産を前提に設計された完成車工場だったのである。
また、追浜工場には当時としては東洋一の規模となる全長2.4kmほどのテストコースや中央研究所(現・総合研究所)も併設されていた。現在のNISMO(ニスモ)につながる日産自動車 特殊車両実験課が「追浜ワークス」と通称されていたという歴史もある。
現在はノート、ノートオーラという小型FF車を生産している追浜だが、過去にはリーフ、フェアレディZ、プリメーラ、セフィーロ、マーチ、キューブ、ブルーバード、セドリックなどなど各時代を彩る日産の名車を作ってきた。
ある時代においては、“技術の日産”を象徴する地名が「追浜」であったといっても過言ではない。
追浜が生まれ変わる可能性もある
そんな歴史と伝統にあふれた追浜が、車両生産を終えてしまうのは納得しがたいという日産ファンも多いかもしれないが、歴史と伝統がある工場ゆえに閉じる判断ができたともいえる。
いくらマザー工場として、最新の生産技術を投入していたとはいえ、カーボンニュートラルや新世代EVの生産をするには、いろいろレガシー的要素(古い仕組みなど)をクリアしなければならないだろう。国内の工場をどれか閉鎖するのであれば、もっとも古い追浜を閉じるというのは、当然の結論ともいえる。
ただし、筆者は追浜工場がこれで終わってしまうと単純に捉えるべきではないとも思っている。
追浜のテストコースが、2007年に「GRANDRIVE(グランドライブ)」として再整備されたように、追浜の車両生産工場はゼロベースで生まれ変わる可能性はゼロではないと期待したいからだ。
実際、1971年に完成車工場として操業を開始した栃木工場は、2021年に「ニッサンインテリジェントファクトリー」となり、アリアの生産を開始。次期リーフも同じく栃木工場で作られることは発表済みだ。
栃木の「ニッサンインテリジェントファクトリー」は、カーボンニュートラル生産の実現に向けて塗装工程でのCO2排出量を大幅削減するといった生産技術も実現しているし、「人とロボットの共生」をテーマに生産のオートメーション化も進めている。
追浜工場における車両生産終了の発表において、『総合研究所やGRANDRIVE、衝突試験場、追浜専用ふ頭など、そのほかのすべての機能については、今後も変更なく事業を継続』していくとアナウンスされている。
つまり、日産は追浜から完全撤退するわけではない。
日産の経営再建という視点からみれば、工場跡地を高値で売却することが有効なのは当然だが、研究所と隣接する土地の活用についてもおのずと制限が出てくることだろう。
個人的には、ノート、ノートオーラ、キックスといった車両生産については九州へ移管するのは確定として、追浜工場の跡地をEV専用ファクトリーとして再生してほしいと思う。
「ギガキャスト」と呼ばれる大規模高圧アルミ鋳造やフルオートメーション化を進めた無人のロボット生産ラインなど、まさに未来の自動車工場をゼロベースで作り上げる好機とすることで、現在の逆境を乗り越えてほしいと切に願う。

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