
乾燥した大地で廃車巡り
米国アリゾナ州のジャンクヤード『デザート・バレー・オートパーツ(Desert Valley Auto Parts)』は、州内にいくつかの施設を保有している。そのうち、カサグランデには2つのヤードがあるのだが、そのことは訪問者にはあまり知られていない。
【画像】一世を風靡したウェッジシェイプ・スポーツカー【トライアンフTR7とフィアットX1/9を詳しく見る】 全45枚
メインのヤードには、米国製のヴィンテージカーがずらりと揃っている(これについては別の機会に改めてご紹介する)が、未舗装の道路を800mほど進むと、もう1つ、非常に興味深いヤードがある。ここには古い欧州車や日本車が多数保管されており、米国車もいくつか混じっている。
わたし達取材班は2022年にこの隠れたヤードを見学する許可を得て、大変楽しい時間を過ごした。今回は、そこで見つけた車両のほんの一部をご紹介したい。
ユーゴ – 1988年
ユーゴは欧州でも珍しい存在だが、米国ではさらに希少だ。旧ユーゴスラビアのザスタバ・モーターズによって製造され、1985年から1992年にかけて、なんと14万台が米国で販売された。
しかし、信頼性はひどく、1990年代末までにその大半はスクラップとなった。
デソート・カスタム – 1949年
1940年代、デソートは腐らないボディを採用していると主張していたが、それが嘘ではなかったことは明らかだ。この4ドアのカスタムは73年前の製造だが、今でも驚くほど状態がしっかりしている。とはいえ、この地域の気候も影響しているのだろう。
アリゾナ州カサグランデの年間降雨量は234ミリで、全米平均の767ミリに比べ非常に少ない。
トライアンフTR7 – 1975年
TR7のウェッジシェイプ(くさび型)デザインは、確かに万人受けするものではなかった。残念ながら、親会社であるブリティッシュ・レイランドが望んだほどの成功も収められなかった。1975年から1981年の間に約11万5000台が製造され、最大の市場は米国だった。
写真の部品取り車は英国製だが、英国で販売が始まる1年前の1975年に製造された。
フィアットX1/9 – 1975年
トライアンフTR7と似たスタイルの、イタリア製のミドシップエンジン搭載車、フィアットX1/9。主に輸出を想定して設計され、実際、1972年から1989年までに製造された16万台のうち、約3分の2が米国に輸出されている。
この車両は、米国での販売開始2年目の1975年に製造されたもの。同ヤードでの価格はわずか950ドル(約14万円)だった。
ヒルマン・ミンクス
アメリカンスタイルを採用した英国製のヒルマン・ミンクスは、大西洋を越えて比較的よく売れ、1958年だけで1万9000台が販売された。実際、この小型ファミリーカーは、米国のメーカーが独自のコンパクトカーを発売するまで人気を維持していた。
しかし、現在ではほとんど姿を消しており、この2台は非常に珍しい光景となっている。どちらも火災で損傷しており、価値はほとんどないだろう。
トヨタ・カローラ – 1974年
トヨタ・カローラは1966年に発売され、この車両が生産ラインからロールアウトされた1974年には、すでに世界一のベストセラー車となっていた。これは2代目の後期型で、販売用ではなく、デザート・バレー・オートパーツが部品取り用として仕入れたものだ。
アリゾナ州のナンバープレートが付いているが、リアフェンダーの下部に大きな穴が開いていることから、おそらくは気候のあまり良くない州で使われていたと思われる。トヨタ・カローラは、12世代にわたって5000万台以上の販売台数を誇る、史上最も人気のある自動車だ。
オペル・マンタ
1970年代、ゼネラルモーターズは2ドア・クーペの初代マンタを輸入した。ドイツの子会社オペルによって製造され、米国ではビュイックの販売店を通じて販売された。しかし、為替レートの変動と価格上昇により、1970年代半ばまでに販売が終了し、ゼネラルモーターズは代わりに日本製のいすゞ車を輸入するようになった。
その後、オペルの名前が米国で再び登場することはなかったが、キャデラック・キャテラ(1996-2001)はオペル・オメガのバッジエンジニアリング車だった。
フォード・カプリ – 1971年
マンタの直接のライバルとなるカプリは、英国で設計され、ドイツで製造された後、1970年に米国で発売された。リンカーン/マーキュリーの販売店を通じて販売されたため、欧州とは異なり、フォードのエンブレムは付けられていなかった。
カプリは成功を収め、ある年には、フォルクスワーゲン・ビートルに次ぐ輸入車販売台数第2位を記録した。
フォード・カプリII – 1977年
2代目のフォード・カプリは、米国ではカプリIIとして知られ、これもリンカーン/マーキュリー販売店を通じて販売された。先代と同様、欧州仕様車と非常によく似ており、最も大きな変更点は4灯式ヘッドランプと大型バンパーだ。
1976年から1978年の間に、このスポーティなハッチバックは5万6000台以上販売されたが、現在ではほとんど残っていない。
シボレー・マリブ – 1980年
この廃車になったタクシーは、ジャンクヤードにちょっとした彩りを添えている。これは4代目シボレー・マリブで、フォードのホイールトリム以外は完全な状態だ。約150万台が販売され、そのうちイラク政府が1万3000台を購入した。この4ドア・セダンは、1980年に製造された14万5634台のうちの1台だ。
ジャガーXJ6 – 1971年
フロントガラスに書かれたメモによると、この1971年製のジャガーXJ6の4.2L 6気筒エンジンは、シボレーのスモールブロックエンジンに交換されているようだ。1968年から1973年にかけて英国で9万8227台が製造されたシリーズ1で、このヤードではプロジェクトカー(レストア用の車両)として販売されていた。今回わたし達が見つけた7台のジャガーのうちの1台だ。
ホンダ・シビック – 1976年
この1976年製の2ドアのホンダ・シビックは、ジャンクヤードで人気のあるクルマではなかったが、ここでは1500ドル(約22万円)で売れると期待されていたようだ。
初代モデルは1972年から1979年にかけて製造され、米国で好調な販売を記録した。1973年の石油危機では、経済的な4気筒エンジンが消費者に支持され、人気は急上昇した。
MG MGB – 1979年
米国の衝突安全規制に準拠するために導入された、醜いスチール補強の黒いゴム製バンパーから判断すると、このMG MGBは1974年以降に英国で製造されたものと思われる。具体的にはかなり後期のモデルで、おそらく1979年か1980年ごろの製造ではないだろうか。
MGBは1962年から1980年にかけて50万台以上が製造され、そのうち29万8052台が米国で販売された。マツダ・ミアータ(日本名:ロードスター)が登場するまでは、史上最も売れたスポーツカーだった。
トライアンフ・スピットファイア – 1965年
トライアンフ スピットファイア(1962-1980)は生産台数ではMG MGBに次ぐ存在だったが、それでも31万4000台が製造されており、人気を博していたことがわかる。
スピットファイアは5世代にわたって製造され、この1965年製の部品取り車は2代目にあたる。1965年から1967年にかけて製造され、販売台数は3万7409台にとどまった。最高出力68psのエンジンを搭載し、0-100 km/h加速に約15秒かかるという非力ぶりで、そのスポーティな外観に見合った性能ではなかった。
ジャガーXJS – 1987年
XJ-Sコンバーチブルは1988年に発売されたモデルである。しかし、この車両はそれより前の1987年製とのことなので、オハイオ州を拠点とするコーチビルダー、Hess & Eisenhardtによってクーペベースで改造された推定2100台のうちの1台であると考えられる。
XJ-Sは20年間で11万5413台が製造された。5.3L V12エンジンを搭載する美しいクルマだが、この車両は残念ながらプロジェクトカーとしては販売されていなかった。部品取りのために解体される運命にある。
キャデラック・アランテ – 1992年
ジャガーにはXJ-S、メルセデス・ベンツにはSLがあったが、キャデラックにはそのような高級ロードスターがなかった。1980年代、キャデラックはついにその状況を打破する決意をした。その答えが、ピニンファリーナがデザインしたアランテだった。製造もイタリアで行われ、トリノからデトロイトに空輸されていた。
価格は非常に高く、販売も特に好調ではなかった。実際、7年間(1987年から1993年)の生産期間中に販売されたのはわずか2万1000台だった。
シボレー・シェベット
史上最高のハッチバックの1つが、このシボレー・シェベットの隣に停まっている……。やや地味なデザインだったが、シェベットは12年間(1975年から1987年)の生産期間中に280万台を販売する大ヒット作となった。
その売れ行きは初代フォルクスワーゲン・ラビットを大きく上回る。かつてはごく一般的なクルマだったシェベットだが、現在ではほとんど見かけなくなった。
オペル・カデット – 1969年
オペルが1965年から1973年まで製造したカデットBは、このクーペを含むさまざまなボディスタイルで展開された。
米国ではビュイックの販売店を通じて販売され、増加する日本車や欧州車との競争を繰り広げた。1966年から1972年にかけて43万台を販売し、好調な売れ行きを見せた。
ポンティアック・グランプリ – 1964年
この2ドア・ハードトップの1964年式ポンティアック・グランドプリックスは、下部のクォーターパネルとトランクフロアに若干の腐食が見られたものの、全体的には非常に堅牢だった。
同年、グランプリは6万4000台近くが販売され、前年より9000台ほど減少した。この車両はワシントン州のナンバープレートが取り付けられていたため、生まれ故郷からは遠く離れた土地で走っていたようだ。
フォード・コルティナ
1967年から1970年にかけて、英国で設計・製造された2代目フォード・コルティナが約6万台、米国へ渡った。1971年に米国製造のフォード・ピントが発売されたことで事実上姿を消し、英国で製造されたフォード車として大西洋を渡った最後のモデルとなった。
写真の4ドア・セダンは、1.6Lの4気筒エンジンを搭載したコルティナ1600GTだ。最高出力93psで、最高速度は153km/hに達した。
(翻訳者注:記事は後編へと続きます。)
■解説の記事
アリゾナの太陽に灼かれる日米欧の廃車 40選(前編) ジャンクヤード探訪記
トヨタ博物館の至宝 34選(後編) 花開く日本車の個性
【写真で見る】欧州最大級のイベント 注目発表まとめ(後編) グッドウッド・フェスティバル2025
【写真で見る】欧州最大級のイベント 注目発表まとめ(前編) グッドウッド・フェスティバル2025
■レストアの記事
アリゾナの太陽に灼かれる日米欧の廃車 40選(前編) ジャンクヤード探訪記
この1台がフォードを救った 奇跡の『1949年モデル』 開発経緯と歴史
さながらグループのワークス部門 3台のサンビーム・タイガー(2) もっと好成績を狙えた実力車
半世紀を経てモンテカルロへ集結 3台のサンビーム・タイガー(1) 共感を呼んだV8の興奮
■レストモッドの記事
アリゾナの太陽に灼かれる日米欧の廃車 40選(前編) ジャンクヤード探訪記
【写真で見る】欧州最大級のイベント 注目発表まとめ(後編) グッドウッド・フェスティバル2025
【写真で見る】欧州最大級のイベント 注目発表まとめ(前編) グッドウッド・フェスティバル2025
クラシック・ミニの最新レストモッド手掛けた「カラム」訪問【クロプリー編集長コラム】

コメント