人生100年時代といわれる今、定年後の暮らしには「自由な時間」や「新たな楽しみ」と共に、思いも寄らぬ現実も潜んでいます。順風満帆に思えた第二の人生も、ある日突然、大きな選択を迫られることがあるようです。

セカンドライフをスタートさせた定年サラリーマンだったが…

大卒で就職した大手食品メーカーで定年を迎えた鈴木浩一さん(60歳・仮名)。勤め上げたと感慨に浸る間もなく、会社からの打診を受けて、浩一さんは嘱託社員として再雇用される道を選びました。役職から外れ、雇用形態が変わることで、月収は60万円から28万円と、5割以上も減額。それでも、年金受給が始まるまでの5年間、無収入にならずに済むわけですから、実にありがたい話です。

定年と同時に手にした退職金は2,800万円。老後資金として十分すぎるほどの額です。二人の子どもはとうに独立し、住宅ローンも完済。これからは重責からは解き放たれ、余裕のある働き方ができるはず。結婚以来35年間、家を守ってくれた妻・恵子さん(58歳・仮名)とともに、たまには旅行にでも行くなど、穏やかな日々が始められると思っていました。

定年の日、すき焼きを囲んでささやかなお祝い。「これまで本当にご苦労様でした」「少し余裕ができるけど、あと5年、よろしくお願いします」。そんなやり取りをして、セカンドライフがスタート……するはずでした。

定年を迎えてから1ヵ月後。実家で暮らす86歳の母・春枝さんから「もう無理。お父さんの面倒は、私ひとりじゃとても見られない……」と電話。その声は、明らかに追い詰められていました。88歳になる父・健太さんは、ここ数年でめっきりと足腰が弱り、最近では認知症もひどくなっているといいます。これまで春枝さんが一人で介護を続けてきましたが、その気力も体力も、もはや限界に達していることは明らかでした。

「わかった、母さん。少し考えさせてくれ」

そう言って電話を切ったものの、浩一さんの頭の中は真っ白でした。実家へは車で1時間弱。毎日、駆けつけられない距離ではありません。ただ嘱託社員とはいえ、仕事を休んで実家に帰るわけにはいきません。施設に入れることを検討してみたものの、費用的な懸念から断念。やはり施設へ、となると、浩一さんが身銭を切る必要があります。

「私が費用を負担するというのは……自分たちのこれからを考えると、絶対避けたい選択肢でした」

「冗談でしょ?」凍り付いた妻の表情

どうすればいいのか。考えあぐねること5日、浩一さんは一つの結論に達します。それは恵子さんの手を借りるというもの。これまで浩一さんを支えてきてくれたのだから、今度も助けてくれるはずだ――。

厚生労働省2022(令和4)年 国民生活基礎調査』で要介護者等からみた主な介護者の続柄をみていくと、「同居の家族」は45.9%、「別居の家族等」は11.8%。別居している義親の介護を担うのは、珍しいケースといえるでしょう。それでも浩一さんは、「恵子なら引き受けてくれるはず」という確信めいたものがありました。

「恵子、相談があるんだ。実は、うちの親父のことで……」

浩一さんは、母からの悲痛な電話の内容を説明し、自分は仕事があるため、どうしても身動きが取れないことを伝えました。そして、最後に「だから、頼む。母さんを助けると思って、しばらく親父の面倒を見に行ってはくれないだろうか。もちろん、週末は俺も必ず手伝うから」と続けました。誠心誠意、頭を下げてお願いすれば、きっと理解してくれる。そう信じて疑わなかった浩一さんの耳に届いたのは、想像とはあまりにもかけ離れた、冷たい言葉でした。

「……冗談でしょ?」

浩一さんの表情は凍り付き、その声には軽蔑の色さえ浮かんでいるように感じられました。

「え……?」

「だから、私があなたのお父さんの介護をするなんて、あり得ないって言っているの」

恵子さんは、静かに、しかしはっきりとした口調で続けます。

「私はこの35年間、あなたの妻として、二人の子どもの母親として、この家を守るために尽くしてきました。それは、家族のためであって、あなたの召使いになるためじゃない。ようやく子どもたちが巣立って、これからは自分の時間が持てると思っていたのに」

「な、何を言っているんだ、家族じゃないか!」と、思わず声を荒らげる浩一さんに、恵子さんは冷静に答えます。「あなたの親の介護をするために、あなたと結婚したわけでも、あなたをサポートしてきたわけでもない」。さらに恵子さんは、まっすぐに浩一さんの目を見て、こう言い放ったのです。

「どうしても、というなら離婚するしかありません。きちんと慰謝料をいただけるなら、その対価として介護を考えてあげなくもないわ」

まさしく撃沈。仕事を辞めて浩一さんが介護するか、離婚して恵子さんに助けを求めるか、それとも……どうすべきか、結論が出ないまま、ただ茫然とするしかなかったといいます。

[参考資料]

厚生労働省2022(令和4)年 国民生活基礎調査』

(※写真はイメージです/PIXTA)