
相続税の税務調査は、新たな時代に突入しています。かつては財産の規模が大きい事案が主な対象でしたが、現在は違います。昨今、特に税務署が注視しているのは「海外資産の申告漏れ」。国際的な情報共有の仕組みが強化されたことで、海外に少しでも資産があれば、その情報は自動的に日本の税務当局に筒抜けになっているのです。本稿では、相続税申告に詳しい税理士の中垣健税理士事務所の中垣健税理士が、中小企業経営者だった父を亡くしたある家族の事例とともに税務調査の実態を明かします。
相続税の申告は完璧のはずが…税務署からの思わぬ指摘
相続財産は、約1億3,000万円。亡くなった父親(70歳)は中小企業の経営者だったため、その割には相続財産の額が比較的少ないという印象でした。相続人は専業主婦の妻(66歳)と息子1人(39歳)、娘2人(37歳、35歳)。遺族はもちろん、税理士である筆者も、特に問題のない申告だと考えていました。
申告の際には、税理士が申告内容の適正さを保証する「書面添付制度」を利用しました。この制度を利用すると、税務署は税務調査の前に、まず担当税理士に意見を聴取します。筆者はしっかりと調査したうえで申告していたため、自信をもって税務署に出向きました。ところが、担当調査官は「これ、申告から漏れているものがありますよね」と切り出してきたのです。
やりとりは核心を避けるかのように続き、「資料収集はどう行ったのか」「相続人といつ会ったか」など細かな質問が延々と続きました。らちが明かないので筆者はしびれを切らし、「なにが問題なのか早くいってください、私も協力しますから」と問い詰めたところ、調査官から出てきたのは「相続人に海外資産があるのでは?」という疑念だったのです。
調査官は「実は、相続人が所有する海外資産があると我々は思っている。先生、知らないでしょ?」といいます。そのような話は遺族から聞いていなかったので、筆者は「いや、知りません」と答えるほかありませんでした。これが今回の税務調査の始まりです。
意見聴取という制度は、申告書を作成した税理士が、なにをみてどのように調べたかを聴取するものです。税務署と税理士の信頼関係のもと、税理士がなにを根拠に申告書を作成したかが問われます。そこで税務署が納得すれば調査は終了しますが、今回のように税理士も知らない事実が出てきた場合、本格的な調査へと移行します。
税務署側の話によると、4人には海外の口座に合計3,500万円ほどの資産があることが判明したとのこと。それが亡くなった方(父親)の名義預金ではないかと疑っていたのです。そのため、「ほかの部分はいいので、この件だけ調査しましょう」ということになりました。
「娘が主導でやっていました」の一言が突破口に
後日、調査官が相続人の自宅に出向き、税理士である筆者の立ち会いのもと、聞き取り調査を行いました。その日は、相続人である妻への聞き取り。初めはどのように資産形成を行っていたかといった質問をしていき、そこから筆者が「海外に資産があるのではないか、といわれたのですが」と話を向けました。
すると、「娘が主導してやっていました」という言葉がポロッと出てきたのです。筆者自身も初耳でした。海外資産の有無に関しては、申告書を作成する際に質問しているのですが、そのときにはそういった話が出てこなかったからです。
調査官が「それはいつごろですか? どんな経緯で?」と根掘り葉掘り聞いていくなかで、15年ほど前の古い通帳が出てきて、当時の出入金の記録が残っていました。まずはこれを当たって、海外の資産が本当に妻の財産から出ているかどうかを調べることになりました。
調査官はその通帳のコピーを取って引き上げました。結局、税務署も4人に海外資産があるところまではわかったものの、そのお金の出どころがどこなのかという、核心の部分まではつかんでいなかったのです。
被相続人が中小企業の経営者で、生前の年収が2,000万円という高額だった割に、相続財産が約1億3,000万円という少ない額だった理由についても、妻によると、「本人はお酒や旅行が好きで散財してきたため、あまり残らなかったのだ」とのことでした。
母・娘2人からの逆襲戦
次回の税務調査には、妻と2人の娘が同席しました。その場で3人それぞれが自分名義の通帳を持参し、「海外資産については、私たち自身で資金を出して運用し、その運用益も自分たちで受け取っています」と説明しました。
実際、10数年前に妻が香港の口座に送金している記録があり、その後に運用益と思われるお金が振り込まれていました。その送金の原資が誰のお金なのかはわかりません。しかし、少なくとも妻自身が送金していたことから、3人の子どもたちも同様に自分たちのお金で海外資産を運用していることが推測されます。
そのうえで、「これ以上のことは私たちにはわからないので、名義預金の疑いがあるというのなら、そちらで調べて立証してください」と、逆に調査官にその後の対応を委ねました。調査官も全容を把握しきれず、結果的には強引に納得させたような形で税務調査は終了。
もちろん、亡くなった父親のお金が使われていた可能性もゼロではありません。しかし、それを立証できるだけの証拠を税務署側もみつけることができませんでした。税務署としてもその原資が不明確である以上、それ以上の追及は困難と判断したのでしょう。
税務署の“網”に引っかかった理由
通常、相続財産が1億円数千万円程度の家庭を、税務署が調査対象にすることはあまりありません。にもかかわらず、この家族が税務調査の対象に選ばれたのは、近年、海外との情報共有が進んだことが背景にあります。その一つがOECD(経済協力開発機構)が策定したCRS(Common Reporting Standard:共通報告基準)で、日本を含む多くの国が導入しています。
このCRSは、外国の金融機関等を利用した国際的な脱税や租税回避に対処するため、各国の税務当局が非居住者の金融口座情報を自動的に交換するための国際的な枠組みです。そのため日本の税務当局には、各国から日本居住者の海外金融口座情報が自動的に送られてきます。今回の税務調査は、送られてきた海外口座情報のローマ字の名前が、この家族の名前と一致したことが理由と思われます。
税務署はこのデータを活用して“怪しい”と思われる事案に狙いを定めて税務調査を始めていると思われます。つまり、財産の規模だけで調査対象が選ばれるわけではなくなっているのです。
中垣 健
中垣健税理士事務所所長

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