キャリアも健康も順調で、このまま退職まで安泰だと信じていた会社員の橋本さん(仮名・51歳)。しかし、病気による休職を余儀なくされたことで、順調な生活から一転、家計の危機に……。このような「まさか自分が」は誰にでも起こり得ます。十分な収入と貯蓄があっても本当に安心といえるのか、橋本さんの事例を元に「生きているけど働けなくなる」リスクと備えについて、CFP(ファイナンシャル・プランナー)の伊藤寛子氏が解説します。

キャリア順調、退職まで走り抜けるはずが…50代部長に訪れた突然の異変

大手企業の部長として働く橋本さん(51歳)の年収は1,500万円。専業主婦の妻と、難関私立大学を目指す高校生の長男と3人暮らしです。都心に近い人気の住宅街に15年前に購入したマイホームの住宅ローンの返済はあと20年残っていますが、貯蓄は3,000万円あります。

仕事は順調そのもの。長年の功績が認められ、同期の中でもいち早く部長に昇進しました。

「このまま60歳まで走り抜け、悠々自適の老後を送る」 「息子の学費も、自分たちの老後資金も、今のまま稼ぎ続ければ何の問題もない」

これまで大きな病気をしたことがなかった橋本さんは、自分の健康に絶対の自信があり、「働けない日が来る」などとは、これっぽっちも思っていませんでした。

ある日、橋本さんに海外の大型プロジェクトが任されます。慣れない業務内容、時差のある海外拠点とのやり取り、増える責任とプレッシャー。あまり得意ではない英語での業務もストレスの一因になりました。

日を追うごとに、橋本さんは些細なことでイライラするようになりました。夜中に何度も目が覚め、深い睡眠が取れなくなりました。週末の楽しみだったゴルフも、まったく気乗りしなくなってしまったのです。

そしてある朝、どうしてもベッドから起き上がれず、会社に電話をかけることすらできない状態に。妻に付き添われて心療内科を受診した結果、うつ病と診断され、即座に休職を勧められました。

「まさか、この自分が……」

順風満帆にキャリアを積み重ねてきた橋本さんにとって、それは受け入れがたい現実でした。

働けないのに、止まらない支出がさらなる心理的負担に

休職後、まもなく傷病手当金が支給され始めました。給与の約3分の2が支給されるこの制度は、公的な支援として大変ありがたい存在です。とはいえ、ボーナスはゼロになり、住宅ローンや教育費、日々の生活費など、すべてを賄うには十分ではなく、貯金を切り崩して対応せざるを得なくなりました。

「働けない、でも支払いは止まらない。それが一番きつかったです」……そう語る橋本さん。さらに、長男の大学受験が迫る中、「学費は大丈夫なのか」という家族からの無言のプレッシャーも重くのしかかったそうです。

回復の兆しが見えないまま時間が過ぎ、1年半後、傷病手当金の支給期限を迎えても職場復帰は叶わず、橋本さんは退職することになりました。退職後、再就職を目指しましたが、うつ病を経験した50代が正社員で再就職するのは現実的に難しく、応募した企業の面接すら通らない状況が続いていました。

――こうした想定外の事態に備えるのが、本来の「保険」の役割です。しかし、橋本さんが加入していたのは、死亡保障が中心の保険。「健康体でいるのが当たり前」という前提で、「働けないリスク」に備える保険の必要性を橋本さんは想定していませんでした。

また、高収入ゆえに教育費は家計からその都度出せるだろうと思っており、特別に貯めてはいませんでした。老後資金も「退職金と年金があれば大丈夫だろう」と、計画的に準備をしていませんでした。

「何とかなるだろう」と思っていた日常は、あっけなく崩れてしまったのです。

「働けなくなるリスク」に備える5つのポイント

橋本さんのケースを元に、「働けなくなるリスク」にどんな備え方があるのか、解説します。

1.公的制度を正しく理解する 健康保険に加入する会社員には、「傷病手当金」があります。病気やケガで働けなくなった際に、最長1年6ヵ月間、給与の約3分の2が支給される制度です。ただし、あくまで一時的な補償であり、長期的に生活を支えるものではありません。

2.民間保険で「収入減リスク」を補う 「働けなくなるリスク」に自助努力で備える方法として代表的なのが、「就業不能保険」です。病気やけがで所定の就業不能状態になったときの収入減を補うための保険で、一定期間毎月給付金が受け取れます。ただし、給付要件が比較的厳しい場合もあります。就業不能保険で備えることが本当に必要か、ニーズに合っているか、慎重に判断して検討しましょう。

3.住宅ローンは団信の内容を確認 住宅ローン契約時に加入する団信(団体信用生命保険)に、「就業不能特約」が付けられる場合もあります。 就業不能状態が一定期間続くと、住宅ローンの返済が免除される仕組みです。これから住宅ローンを組む方はもちろん、現在返済中の方も借り換えを検討する際に、金利だけでなく「万が一への保障内容」も比較・検討しておくべきです。

4.教育費・老後資金は「家計と分けて管理」 橋本さんのように「収入からその都度出せばいい」と考えていると、収入が減ったときや、止まってしまったときに対応できません。教育資金・老後資金は、目的別に管理・積立しておくことが大切です。特に、老後資金は「退職金が出るから大丈夫」という考えは危険です。iDeCoやNISAといった非課税制度も活用し、計画的に「長期分散投資」で備えることで資産形成にもつながります。

5.「働けなくなる」前提でもキャッシュフローを作ってみる ライフプランはつい、「今の収入が将来も続く」前提で考えがちです。しかし、あえて「収入が3分の2になったら」「ゼロになったら」というシミュレーションをしてみることで、家計のリスクが見えてきます。どこにリスクがあり、どんな備えが必要かが明確になれば、対策を立てる意識も変わってきます。  

未来の安心を守るために、万が一に備える

橋本さんは現在、回復の道を歩んでいます。受け取った退職金で息子の大学にかかる費用や当面の生活費を補いながら、週に数日のパートタイムで働き、妻と支え合いながら生活を立て直しています。

「自分が働けなくなることを、一度でも想像して準備していれば……」 「病気になるリスクは、誰にでもある。だからこそ、健康で働ける今のうちに、万が一が起こった時のことを考えてほしい」

そう静かに語る橋本さんの言葉には、経験した者だけが知る重みがあります。

橋本さんのケースは、決して特別な話ではありません。私たちは、つい「自分は健康だから大丈夫」「うちは高収入だから問題ない」「生きていれば働ける」と思いがちです。ですが、突然の心身の不調で生活が一変すること、「生きているけど働けない」状態になることは、誰にでも起こり得ます。そして、一度働けなくなると、そこから生活を立て直すのは決して簡単ではありません。

大事なのは、「健康な今」「働けている今」のうちに、家計のリスクを知り、万が一に備えておくことです。 「万が一に備える」ことは、決して不安にばかり目を向けて、心配し過ぎることではありません。むしろ、安心して生きていくため、未来の安心を守るための、前向きなリスク管理です。

「もっと早く備えておけばよかった」と、あとで悔やんでも取り返しのつかないことにならないように、「働けるを前提としない家計」になっているか、見つめ直してみましょう。  

伊藤 寛子

ファイナンシャル・プランナー(CFP®)

(※写真はイメージです/PIXTA)