老後の暮らしを安心して迎えるため、十分な貯蓄や健康管理に努めてきたとしても、誰しも「想定外」は避けられません。老後に訪れるリスクは、一度きりとは限らず、時に生活設計そのものを大きく揺るがすこともあります。

想定外の「医療費」…健康診断オールAを襲った病魔

中堅メーカーを60歳で定年を迎えたあと、契約社員として働いてきた田中健一さん(71歳・仮名)。年金が受け取れる65歳になったのを機に仕事を辞めました。60歳の定年時に受け取った退職金は2,200万円。コツコツと貯めてきた貯金は1,800万円。合計4,000万円の貯蓄は、老後の生活を送るうえで十分すぎるほどの金額に思えました。また、夫婦2人が受け取る年金は月額25万円ほどあり、手取りにすると月20万円ほどになります。十分とはいえませんが、ローンを完済した持ち家での生活であれば、何ら不安なことはないと確信していました。

会社員人生を振り返ると、派手な思い出は何ひとつなく、「平々凡々だったなあ」という自己評価。自慢できるようなことといえば、「唯一、健康だけは取り柄です」と健一さんは笑います。これまで大きな病気やけがはなく、同僚が40歳を過ぎてメタボ判定を受けるなか、健康診断は常にオールA判定でした。たばこを吸わず、お酒も付き合い程度。早寝早起き、適度な運動と腹八分目を心がけた結果だと胸を張ります。

そんな健一さんが結婚したのは、2歳年下の恵子さん。職場結婚でした。恵子さんは結婚を機に専業主婦となり、健一さんが仕事に集中できる環境を整え、一人息子を立派に育て上げました。その息子も今では独立し、家庭を築いています。

退職後の生活は、夫婦2人で穏やかに過ごすことを思い描いていました。普段は質素倹約を心がけ、年金の範囲内で生活する。そして、貯蓄には手を付けず、たまの記念日に近場へ旅行に行ったり、外食をしたりと、少しだけ贅沢をする――。そんな、ささやかで幸せな計画でした。退職後の2年間ほどは、思い描いたとおりの穏やかな日々が流れていました。

その異変は、健一さんが68歳を目前にした日に訪れました。体に覚えたささいな違和感。いつものように「年のせいだろう」と高を括っていましたが、症状は少しずつ確実なものになっていきました。かかりつけ医の紹介で大学病院の精密検査を受けた結果、告げられたのは、まれな部位にできた悪性腫瘍でした。

「どうして私が……。健康診断はいつもオールAだったのに」

老後を襲う想定外は1度だけとは限らない

医師の説明によれば、通常の健康診断では発見が極めて困難なものだといいます。治療法はあるものの、最も効果が期待できるとされる治療法は、まだ保険適用外の先進医療だといいます。その費用は、数百万円にものぼるとのことでした。「そんなにお金がかかるのか」と躊躇していた健一さんの背中を押したのは、妻・恵子さんでした。

「お金で助かるかもしれない命なら、お願いだから治療を受けて」

厚生労働省が認める「先進医療」は、2025(令和7)年3月1日現在、76種類あります。公的医療保険の対象外で、全額自己負担になります。たとえば、根治的な治療法が可能な頭頸部腫瘍、肺・縦隔腫瘍、消化管腫瘍、泌尿器腫瘍などの治療、1件当たりの技術料は平均267万9,335円。胃粘膜下腫瘍の治療で行われる内視鏡的胃局所切除術は、平均21万5,626円。これらが全額負担になるのです。2023年7月からの1年間、先進医療を受けた患者数は17万7,269人で、全医療費のうち先進医療分の割合は12.9%と、先進医療での治療は決して珍しいものではないのです。

健一さんは先進医療を受けることを選択し、予後も良好でした。合計800万円近い治療費ではありましたが、「もう、安心だな」と夫婦で胸をなで下ろしていました。

しかし、老後の想定外は一度だけとは限りません。次は恵子さんの番でした。最初は、ほんのささいな物忘れでした。「また同じことを聞くね」と笑い合っていたものの、症状は徐々に進行していきました。日付や曜日がわからなくなり、慣れたはずの料理の手順を間違える――。そして、ある日、恵子さんは家を出たまま、帰り道がわからなくなってしまいました。警察に保護され、憔悴しきった姿で帰宅した妻を前に、「もう見ないふりはできない」と感じたといいます。

病院に行った結果、アルツハイマー型認知症との診断でした。「やはりそうだったか……」と納得をしつつ、見たくない現実と向き合わなければならない状況に直面しました。内閣府令和6年版高齢社会白書』によると、2025年には65歳以上の高齢者のうち、約5人に1人が認知症になるといわれています。

最初はゆっくりと進んでいった認知症の症状。しかし、診断から1年ほど経ったときから急激に症状は進行し、健一さんを実の父と間違えるようになります。

「いずれ、私のことを『健一さん』とは呼んでくれなくなるんだろうな……」

健一さんは、恵子さんを介護施設へ入居させることを決断します。地域包括支援センターに相談したところ、恵子さんの症状であれば、特別養護老人ホーム(特養)に入居することも可能だろうといいます。そのメリットは何といってもリーズナブルな費用です。しかし長年連れ添った妻に、少しでも良い環境で穏やかに過ごしてほしい――。そう考えた健一さん。複数の施設を見学し、手厚い介護と充実した設備を誇る有料老人ホームを選びました。入居一時金だけで1,000万円近くかかり、諸費用合わせると月々の費用も25万円を超えそうです。

「お父さんの気持ちは分かるけど、ちょっと高過ぎないかな?」

息子から冷静な指摘がありましたが、健一さんの心はブレません。「もう、こんな家に1人で住んでいても仕方がないから」と自宅を売却し、健一さん自身は家賃5万円程度の賃貸アパートに。「終活の一環だよ」と笑う姿には、悲壮感が漂います。

自宅を売り払い、妻を施設に預けた健一さん。当初4,000万円あったはずの資産は、自身の高額な医療費で大きく減り、妻の介護施設費用でどんどん減っていきます。最近の恵子さんは、健一さんを健一さんと認識することはなくなったといいます。

「妻と2人、穏やかに過ごすことができたらそれでよかったんです。私には、妻のいない老後を生きる覚悟ができてなくて……。どこで間違えてしまったのか」。健一さんは、冷たい一室で、ただ空を見つめるだけの日々を過ごしています。

[参考資料] 厚生労働省『【先進医療A】 令和6年6月30日時点における先進医療に係る費用 令和6年度実績報告(令和5年7月1日令和6年6月30日)』 内閣府令和6年版高齢社会白書』

(※写真はイメージです/PIXTA)