
高齢の親が自立しない中高年の子の生活を支える「8050問題」。この問題は、親亡きあと、その経済的・精神的な負担がほかの兄弟姉妹に引き継がれる深刻なリスクを内包しています。お金の管理ができず、生活能力に欠ける兄弟姉妹の存在は、やがてあなたの家庭をも脅かしかねません。実情をみていきます。
兄が抱える「実家の時限爆弾」
エリートコースを歩むはずだった――。
有名私立大学を卒業した51歳の田中誠さん(仮名)は、幼いころから勉強が得意だったため、将来有望と周囲から囁かれていました。しかし高校に入っても大学に入ってもやりたいことがみつからず、新卒のタイミングでの就職を諦めました。両親もはじめのうちは、打ち込めることをみつけて社会に出てくれると信じ、しばらくのうちは誠さんを実家に置いて、将来について考える時間を与えることにします。
時はあっという間に過ぎ、気づけば誠さんは壮年期を迎えていました。いつまで経っても実家から出る気配はなく、フリーターとして生活しています。週2回のアルバイトの月収は5万円ほどですが、ほとんど全額を趣味であるパチンコに使っていました。そのうえ、72歳になる母親の年金や預金から度々小遣いをもらい、パチンコに通いつづけています。――そうです。この約30年のあいだに誠さんがハマったのはパチンコだけでした。
そんな弟の行く末を案じているのが、4つ年上の兄の和彦さん(仮名)です。家庭を持ち、自立している和彦さんにとって、弟の存在は家族の将来を揺るがしかねない、静かな時限爆弾のように感じていました。
父の死が、弟の金銭感覚を歪めて…
和彦さんの懸念が現実のものとなったのは、6年前に事業家だった父が他界したときでした。
父親が遺した資産は、一戸建ての自宅と多額の預金。相続の際、母親は自宅や会社の売却益など2億円以上を受け継ぎ、和彦さんと弟の誠さんも、それぞれ3,000万円の現金を手にしました。この大金が、弟の価値観を大きく歪めてしまいます。
ある日、誠さんは兄である和彦さんに、悪びれもなくこう言い放ちました「兄貴、母親さんがいなくなれば、この資産は俺たち二人のものだ。そうなれば俺の取り分は1億円。もう汲々と働く必要なんてないんだよ」。
和彦さんは愕然とします。弟の姿は、昨今社会問題となっている「8050問題」、つまり80代の親が50代の子どもの生活を支え、共倒れしかねない状況そのものだったからです。
内閣府の調査(令和元年)によれば、40歳から64歳までのひきこもり状態にある人は全国で61.3万人と推計されています。親が元気で経済的な支えがあるうちは問題が表面化しにくいものの、親の介護や死をきっかけに、働かない子どもの生活が行き詰まり、家族全体が深刻な事態に陥るケースが後を絶たないのです。
蝕まれていく母親の資産
和彦さんの母親の年金は月16万円ほど。しかし、自身の生活費に加え、働かない弟の食費を含む生活費や国民年金保険料まで母親が負担しているため、家計は火の車。毎月30万円以上が母親の貯金残高から消えています。弟は自身が相続した3,000万円を、この6年ですでに半分近く浪費していました。
和彦さんが実家に帰省するたび、母親は「あの子を甘やかしてしまった罰かしら……」と力なく笑うようになりました。
和彦さんの母親のように、老後の生活資金に不安を抱える高齢者は少なくありません。たとえ十分な資産があるようにみえても、平均寿命が延びるなか、医療や介護で想定外の支出が発生するリスクは常に存在します。生命保険文化センターの調査(2021年度)では、介護にかかる一時費用の平均が74万円、月々の費用が平均8.3万円とされ、介護期間が5年を超えれば総額は500万円以上になる計算です。働かない子どもの生活費まで負担している場合、資産の目減りはさらに加速してしまいます。
母親と弟の将来を守る手段
このままではいけない――。兄として、そして息子として、和彦さんは母親と弟の将来を守る方法はないかと調べはじめます。
そこで彼は、主に二つの制度の存在を知りました。一つは、母親が元気なうちに信頼できる家族に財産の管理や運用を託す「家族信託」。そしてもう一つは、将来の判断能力の低下に備えて後見人を指名しておく「任意後見制度」です。どちらも、本人の意思で財産の行き先を決め、望まない相手からの搾取を防ぐための有効な手段でした。
このままなにもしなければ、母親は次男への大きな不安を抱えたままこの世を去ることになるかもしれません。そうなると、弟の次の依存先は兄である自分でしょう。和彦さんは、母親にこれらの制度について話し、家族の未来について真剣な対話を求めました。
母親が下した、未来への決断
対話の末、母親はついに大きな決断を下します。
まず、和彦さんの子どもたち、つまり孫へ教育資金として生前贈与を行いました。そして、残る金融資産のほとんどを、和彦さんを受託者とする「家族信託」の仕組みで管理することを決めたのです。さらに、万が一のことがあった際は、その信託財産は和彦さんが引き継ぐという内容の遺言書も作成しました。
弟の誠さんには、現在住んでいる実家の戸建てを遺すことに。これは、弟の最低限の相続権である「遺留分」を考慮した、ギリギリの采配でした。
「俺のカネはどうなるんだ!」と食い下がる弟に、母親は言葉を返しませんでした。その代わり、彼女は行動で覚悟を示します。和彦さんと相談のうえ、これまで誠さんが自由に使い、母親の預金を引き出していたキャッシュカードの利用を、銀行に連絡して完全に停止させたのです。
母親からの初めての厳しい愛情
――数日後。母親の決意などすっかり忘れた誠さんは、いつものようにパチンコへ向かうため、近所のコンビニATMに立ち寄りました。しかしカードを挿入し、暗証番号を押しても、画面には冷たいエラーメッセージが表示されるだけ。
『このカードはお取り扱いできません。詳しくはお問い合わせください』
苛立ちながら備え付けの電話を取ると、オペレーターから「カードは利用停止済みです」と事務的に告げられます。
「利用停止……?」立ち尽くす誠さん。念のため、銀行へも確認の連絡を入れました。すると、担当者からは「間違いありません。名義人様のご依頼で、ご利用停止処理されています」と冷たい宣告をされました。
「チキショー!」パチンコに行けない怒りと、母親に金の流れを止められたという事実に、誠さんは血相を変えて実家へと走り出しました。
リビングのドアを乱暴に開け、「どういうことだよ!」と母親に詰め寄る誠さん。
そんな息子に対し、母親は静かに、しかし毅然とした態度で告げました。「お父様の会社にいたSさんが、いまも頑張っているわ。あなたも、自分の足で人生を立て直してほしいの。話はつけてあるから、働きなさい」。それは、これまで弟を甘やかしてきた母親が示した、初めての厳しい愛情でした。
いままでにない迫力を感じた誠さんは、渋々ながらも母親のいいつけを受け入れることに。母親は和彦さんに「あの子のこと、頼むわね」と後を託しました。
弟の自立への道はまだ始まったばかりです。しかし、母親の覚悟ある決断に、和彦さんは家族として弟と向き合っていくしかないと、自らの腹を括るのでした。

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