
長く親と暮らすことは、必ずしも「幸せな親子関係」を意味するわけではありません。年齢を重ねても自立できずにいる背景には、家族の「見えない圧力」が潜んでいることがあります。
「恩返ししなさい」…母の言葉に縛られてきた
「今、こうして1人で暮らすようになって、ようやく息ができるようになった気がします」
中田久美子さん(仮名・48歳)。その表情には、長年の苦悩から解放された安堵と、いまだ消えない深い疲れの色が浮かんでいます。50代になる前に初めて掴んだ「自分のための生活」。そこに至るまでの日々は、あまりにも大変なものでした。
3人きょうだいの長女である久美子さん。下のきょうだいは放任気味に育てられた一方、久美子さんだけは厳しくしつけられたといいます。都内の大学への進学時、通学時間を考慮して1人暮らしを希望しましたが却下。就職が決まった際も、同様に認めてもらえませんでした。15年前に父親が他界してからは、実家で母・由美子さん(75歳)と2人暮らしを続けています。
由美子さんが受け取る年金は基礎年金のみで月7万円ほど。一方、都内の会社で働く久美子さんの月収は約45万円です。厚生労働省『令和6年賃金構造基本統計調査』によると、40代後半・大卒・正社員女性の平均月収は38.1万円。久美子さんの給与はそれを上回りますが、生活に余裕があるとは言い難い状況です。ローンを完済した持ち家のため家賃はかかりませんが、光熱費、食費、税金や保険、さらに母へのお小遣い……給料日のたびに、多くが消えていきます。
「自分のために何かを買ったり、友人と旅行に行ったりすることも、いつもどこか罪悪感があって……。48歳にもなって、自分の人生がまったくないような感覚に、ずっと苛まれていました」
経済的に娘へ頼らざるを得ず、もし久美子さんが出て行けば生活が破綻する…そんな状況が、かえって母親の依存心を強めたのかもしれません。母の依存体質は年々エスカレートしていったといいます。
「30代の終わり頃、真剣に結婚を考えた男性がいました。母に『結婚をして家を出る』と言ったんです。すると、母は泣き叫ぶようにこう言いました。『わたしを捨てるのかい!』と。そして、『大学まで行かせた恩を忘れたのか』『子供が親の面倒を見るのは当たり前だ』と。そう言われてしまうと、何も言い返せませんでした」
結局、結婚話は立ち消えになり、家を出ることは叶わなかった久美子さん。総務省統計局『令和2年国勢調査』によると、45~49歳女性の未婚者のうち、48.1%が親と同居しています。経済的な理由や介護など、事情は様々ですが、久美子さんのように、親からの精神的なプレッシャーによって自立のタイミングを逸してしまうケースも含まれるでしょう。久美子さんは、自分の気持ちに蓋をし、ただ黙々と働き、母親を支える毎日を送り続けていました。
ある日、母の恋人の生活も支えることに
そんな息の詰まるような日常に、決定的な亀裂が入る出来事が起こります。
「1年ほど前のことです。仕事を終えて帰宅すると、玄関に見慣れない男性の靴がありました。リビングを覗くと、母が同年代の男性と楽しそうに談笑しています。そして私を見るなり、悪びれもせずにこう言ったのです。『紹介するわ、田中さん。一緒に暮らすことにしたの』と」
まったく相談のない、一方的な宣言。久美子さんは頭が真っ白になりました。由美子さんは「お互い1人じゃ寂しいし、再婚も考えているの」などと、少し浮かれた様子だったそうです。さらに詳しく話を聞いていくと、田中さんもまた低年金で苦しい思いをしていることがわかりました。
「うちには久美子がいるから安心ね、というんですよ。何も断りなしに、頼る気満々なんです。私は結婚を諦めたのに……」
総務省『家計調査 家計収支編 2024年平均』によれば、65歳以上の無職夫婦世帯の収入(年金など)は月平均22万4,186円に対し、消費支出は25万6,521円です。田中さんの詳しい年金額は聞いていないものの、2人の年金だけでは平均的な暮らしも難しそうな雰囲気だったと、久美子さんは語ります。
「母の面倒だけでなく、まったく知らない男性の生活まで私が支えなければならないのかと、目の前が真っ暗になりました」
新しい同居生活は、久美子さんの精神を限界まで追い詰めました。家に他人がいるだけで気は休まらず、食費や光熱費は目に見えて増えていきます。それなのに、母と田中さんがその負担を気にする様子は一切ありませんでした。
「リビングから2人の楽しそうな笑い声が聞こえてくるたび、やり場のない怒りがこみ上げてきました。私は、この人たちの生活のために朝から晩まで働いているのに……」
そんな生活が1年ほど続いた頃、久美子さんの精神は限界に達します。ふと「私、何のために生きているんだろう」と自問した瞬間、心の中で何かが切れ、我に返ったといいます。
「この家を出よう、今すぐにでも出よう、そう思い立ちました」
それからの行動は早く、都内にマンションを借り、引越しの準備を済ませます。家具や家電は新調することにしたので、引越しは段ボール5箱ほどと身軽です。久美子さんが家を出ていくことを、由美子さんと田中さんが知ったのは引越し当日でした。
久美子さんが業者に段ボールを引き渡す姿を見て、ようやく事実を悟った由美子さん。「私たちを捨てる気か!」と、以前と同じように泣き叫びました。しかし、その言葉が久美子さんの心に届くことはありませんでした。
「48年間で初めて、母の意思に逆らいました。家を出ることが、これほど簡単なことだとは思いもしませんでした。結局、私自身が自分を縛り付けていただけなのかもしれません」
[参考資料]
総務省『家計調査 家計収支編 2024年平均』

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