
老後の暮らしに重くのしかかる、医療や介護といった予測しづらい支出。年金収入だけでは賄えない現実に直面したとき、何を優先し、何を手放すのか――。長寿社会を生き抜くために、避けては通れない課題がありました。
介護と物価高がもたらす重圧
星田幸子さん(仮名・77歳)。ここ数年、預金通帳を見るたびにため息をこぼすのが習慣のようになっていました。
「どんどんお金が減っていく――」
原因は、81歳になる夫、勝則さん(仮名)の介護費用と、止まることのない物価の高騰でした。
幸子さんの年金は月に8万円。勝則さんの年金を合わせても、夫婦二人の収入は月に18万円ほどです。以前は年金の範囲内で、夫婦で慎ましく暮らしていました。しかし4年前に勝則さんは認知症を発症。当初、症状の進行は緩やかでしたが、最近はそのスピードが格段に上がっています。介護サービスは週に数回のデイサービスから始まり、訪問介護、そして夜間の見守りサービスと増え続けました。それに伴い、介護費用も雪だるま式に膨らんでいったのです。
結婚して50年以上になります。多くの時間を共に過ごしてきたにもかかわらず、勝則さんの記憶から幸子さんの存在が少しずつ失われていく――そんな姿を見るのは何よりも辛いことでした。それでも、幸子さんは終活を進めるなかで出てきた「最期まで自宅で」という勝則さんの願いを叶えたいと思っていました。
「お父さん、大丈夫だよ。私がずっとそばにいるから」
しかし身体的な負担もさることながら、精神的な疲労は非常に大きなものでした。夜中に何度も目を覚まして勝則さんの様子を見に行き、昼間は介護サービスの手配や家事に追われていました。自分の時間などほとんどありませんでした。穏やかな日々を過ごす友人の話を聞いては、何でもない日常が贅沢に思えてなりませんでした。
さらに追い打ちをかけたのが、止まらない物価の高騰でした。食料品、電気代、ガス代。あらゆるものが値上がりし、家計を圧迫しました。総務省統計局『消費者物価指数(全国、2020年基準)』によると、2025年(令和7年)6月の消費者物価指数は総合で111.7となり、前年同月比で3.3%の上昇。家計に大きな影響を与え続けています。
勝則さんの介護費用は、月に10万円を超えることも珍しくありませんでした。加速度的に減っていく貯金を前に「もう、無理かもしれない……」と何度も心の中でつぶやきました。
在宅介護の限界…特養への入居を目指したが
肉体的にも精神的にも限界を感じ、さらに経済的負担も日に日に大きくなる中で、ある日の午後、幸子さんは意を決して勝則さんに話を切り出しました。勝則さんは、ぼんやりとした表情で幸子さんの話を聞いていました。
「お父さん、ごめんね。もう、無理みたい」
幸子さんの目からは、止めどなく涙が溢れました。
「特別養護老人ホーム、申し込んだの」
幸子さんの言葉に、勝則さんは何も答えませんでした。きっと何もわかっていなかったのでしょう。しかし幸子さんの手を優しく握り返してくれたそうです。
「それが唯一の救いでした」
特別養護老人ホームへの入居は、幸子さんにとって苦渋の決断でした。夫婦の約束を破ってしまうことへの罪悪感がありましたが、それ以上に、このままではいけないという強い危機感がありました。
3ヵ月後、特別養護老人ホームに入居できた勝則さん。しかし幸子さんは新たな現実を突きつけられました。特別養護老人ホームの費用も、想像以上に高額でした。施設の費用、食費、日用品費、医療費などを合わせると、月に20万円ほどの出費になりました。これは、夫婦の年金収入18万円を超える金額でした。
幸子さんは再び、預金通帳を開きました。残高は、以前にも増して寂しい数字を示していました。勝則さんの介護費用を払うために、貯金は加速度的に減り続けていました。
「もう、どうしたらいいの……」
介護と物価高。二つの重圧が、星田夫婦の老後の生活を苦しめています。特に介護費用は、介護度が上がるに従い、想像以上に家計を圧迫するようになります。介護保険制度があるとはいえ、自己負担分は決して少なくありません。
公益財団法人生命保険文化センター『生命保険に関する全国実態調査[2人以上世帯]/2022年度』によると、月々の介護費用は平均9.0万円。介護度別にみていくと、要介護1で5.4万円、要介護2で7.5万円、要介護3で8.5万円、要介護4で12.4万円、要介護5で11.3万円。また在宅介護の場合の平均は5.3万円、施設介護の場合は13.8万円です。このように、介護度や利用するサービスによって大きく変動します。特に、認知症など症状が進行し、手厚い介護が必要となる場合は、さらに高額になる傾向があります。
今後、長寿化が進めば、認知症リスクはさらに高まるでしょう。現役世代はそれを見越して、より資産形成を加速させる必要がありそうです。
[参考資料]
公益財団法人生命保険文化センター『生命保険に関する全国実態調査[2人以上世帯]/2022年度』

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