
2024年・第77回カンヌ国際映画祭にてインド映画として初めてグランプリを受賞した「私たちが光と想うすべて」が公開を迎えた。ままならない日々の仕事や暮らし、社会問題、恋愛や結婚生活……心の中にほの暗い闇を抱えながらも、大都会の片隅で現状を受け入れ、しなやかに暮らす女性たちの小さな人生の転機を、優しくあたたかな光で照らす物語だ。パヤル・カパーリヤー監督に話を聞いた。
※今回のインタビューには作品のネタバレとなる記述があります。
ムンバイで働く看護師プラバと年下の同僚アヌはルームメイトだが、真面目なプラバと陽気なアヌの間には心の距離があった。プラバは親が決めた相手と結婚したものの、ドイツで仕事を見つけた夫からはずっと連絡がない。一方、アヌにはイスラム教徒の恋人がいるが、親に知られたら大反対されることがわかりきっていた。そんな中、病院の食堂に勤めるパルヴァディが高層ビル建築のために自宅から立ち退きを迫られ、故郷である海辺の村へ帰ることになる。
仕事のために大都会ムンバイに住む、地方出身の3人の女性たちのそれぞれの生きざま、その声をリアルに映し出す。「私の作品は常にノンフィクションとフィクションを混ぜたスタイルをとっています。フィクションの部分も、ノンフィクションの部分も、多くの人に取材し、リサーチを重ねた上で脚本が出来上がる、このプロセスがとても重要だと考えています」
フランス・インド・オランダ・ルクセンブルク合作で、プロデューサーはインドとフランスの2名体制で製作された。インド女性のローカルな日常生活を描くが、その繊細な心理描写は、国や文化の違いを越えて共感を集めるものだ。
「世界中の映画から影響を受けていますが、特にフランス映画ではヌーベルバーグの作品、クリス・マルケルやゴダールなど、ドキュメンタリー的な要素をミックスし、撮影しながら現場でスクリプトを作り上げていく、そんな自由な作り方に大きな影響を受けていると思います。日本の作品ですと、河瀨直美監督や濱口竜介監督の作品を映画学校で学び、川端康成の短編集『掌の小説』にも感銘を受けました」
年齢の離れた同僚のプラバとアヌがルームメイトだという設定は、フィクションとして作り上げた。「同じ職場の女性同士が同居すること、それはインドで一般的だというわけではありません。しかし、ムンバイは特に家賃が高い場所ですし、家族の絆が強いインドで、独身の娘が年上の女性と一緒に暮らすことは、安心にも繋がりますし、プラバは結婚しているものの、夫がドイツに出稼ぎに行き、誰かと同居を模索せざるを得ない、そういうことで彼女の行動を表現できると思ったのです」
様々な事情により、自分の思うままに生きることが難しい3人の女性の等身大の姿を、魅力的な3人の女優たちが体現している。「プラバを演じたカニ・クスルティとは、以前からいつか仕事をしたいとずっと思っていました。彼女の目の表情、身体表現は素晴らしく、炊飯器を抱きかかえるシーンはとても彼女らしいと思います。チャヤ・カダムは、有名な女優で、商業的な作品にも多く出ているので、断られるかと思いましたが、脚本を非常に気に入ってくれたのです。何より彼女が(劇中に登場する)海辺の街、ラトナギリの出身だったこともあり、言葉のアクセントやニュアンスなど、セリフ回しを通して非常に豊かに演じていただけました。ディビヤ・プラバは、これまでもっと年長の役を演じていたのですが、実際に会ったところ、もっと若々しく、遊び心のある女性だったので、アヌを依頼しました」
若い女性の日常の1コマとして、自然な形でのヌードやセクシャルなシーンも登場する。インド映画界は保守的で、性的な描写に厳格であるといわれるが、公開にあたり問題はなかったのだろうか。
「ディビヤは脚本を読んで、とてもクールで、洗練された態度を示してくれました。胸を見せることも必要なことだと理解してくれて、それは同居人のプラバに対し怒った時の行為であり、ボーイフレンドとのシーンでは、映っていません。つまり裸を見せることは観客に対するサービスではないのです。レイティングはつきましたが、幸い検閲も問題なく通りました。もちろんあまりよく思わない人もいましたが、それはその人たちの問題であって、映画そのものは何の問題もないと思っています」
インドが抱える社会問題を内包しながらも、自由と自立を求める女性たちの姿を繊細に描く良質なアート映画だ。「RRR」など日本でも話題を集めるインドならではの大規模作品とはまた異なる、このような小さな傑作も本国では大きなスクリーンで公開される。「インドには、日本のミニシアターと呼ばれるようなアートハウスの映画館は存在しないのです。ですから、大きなヒット作が並ぶシネマコンプレックスで、同じように上映されたのです」

コメント