
住宅ローンに子どもの教育費。人生の大きな山をいくつも乗り越え、ようやくみえてくるのが自分たちの老後です。「人生100年時代」という言葉に、漠然とした不安を感じている人は少なくないでしょう。しかし、計画どおりに資産を築けたとしても、それですべての悩みが消えるわけではないようです。実は、「貯められた人」だからこそ直面する、新たな悩みがあるようで……。
老後資金は盤石、穏やかなセカンドライフがスタート
夫が65歳で長年の仕事から引退し、妻もパートを辞め、橋本さん夫妻(仮名、ともに67歳)に穏やかな時間が訪れました。2人の息子を育て上げた、絵に描いたようなおしどり夫婦です。
退職後は、シニア向けのお得なツアーをみつけ、即座に申し込み。旧跡名所を巡る旅を実現します。次はどこへ行こうかと夫妻で相談しながら、仕事、子育てに追われた日々を取り戻すように、セカンドライフを楽しんでいました。
また、現在の楽しみは、独立した息子たちが連れてきてくれるお孫さんの顔を見ること。お盆とお正月の年に二度の帰省は、家の中がぱっと華やぐ、かけがえのない時間となっています。
橋本さん夫妻の家計事情
橋本さん夫妻の老後資金は、退職金を含めて3,800万円。家計をやりくりして、息子たちを育て上げたあと、必死になって貯めてきました。住宅ローンはすでに完済しています。年金の受給額は、夫婦合わせて月26万円程度です。
公益財団法人生命保険文化センターの調査によれば、「ゆとりある老後生活」には月額約39万円が必要とされていますが、夫婦2人が老後を送る上での「最低日常生活費」の平均は月額23万2,000円です。
橋本さん夫妻の年金額は、日々の暮らしには十分な水準であるといえるでしょう。
息子たちへ伝えた「資産」と「願い」
年金生活に入ったことを機に、これからの人生設計、そしていずれ訪れる終活や相続についても考え始めた橋本さん夫妻。自分たちの考えや願いを息子たちに伝えておこうと、お正月に息子たちが帰省するタイミングで話し合いの場を設けました。
橋本さん夫妻は、「自分たちは年金収入で日常生活を十分に賄えるため、経済的な心配はかけない」「住宅ローンもなく、夫婦で築いた3,800万円の資産のうち、おそらく半分程度は残せる見込み」「自宅については、将来的に売却して兄弟で折半しても構わない」といった内容を伝えました。
さらに、万が一の際には、兄弟間で争うことなく、遺された財産を平等に分けてほしいという願いも打ち明けます。息子たちは2人とも真剣な表情で頷き、両親の想いをしっかりと受け止めてくれたように見え、安堵しました。
想定外だった息子たちのSOS
しかし、話の最後に、次男が口を開きました。「資産の半分は残せるという話だったけれど、少し早めにその一部を受け取ることはできないだろうか」と切り出してきたのです。
なにか困っているのかと尋ねると、次男は申し訳なさそうに、コロナ禍以降の給与減に加え、物価高、住宅ローン、そして子どもの教育費という三重苦が家計に重くのしかかっている現状を吐露。「この苦境を乗り切るまで、どうか援助をお願いできないか」と懇願します。
親から子への経済的援助は、現代社会において珍しいことではありません。内閣府が実施した「高齢者の生活と意識に関する調査」では、60代以上の親の約3割が、成人した子どもに対して何らかの経済的支援を行っていると回答。特に、子どもの住宅購入費や教育費、あるいは生活費の援助が上位を占めており、親世代が子世代の経済的困難を支えている実態が浮き彫りになっています。
橋本さん夫妻は、以前専門家に老後のライフプランについて相談した際、「現状の資産状況であれば、ゆとりをもって安心して生活できるでしょう」という太鼓判を押されていました。しかし、長男の目の前で次男だけに資金援助をするわけにもいかず、返答に窮しました。すると、それまでのやり取りを聞いていた長男も、「もし余裕資金があるなら、自分も早めに贈与してもらえると非常に助かる」と申し出たのです。
「人生100年時代」といわれる現代、この先、自分たち夫婦のどちらかが介護が必要になるなど、予測できない事態が起こる可能性を考えると、橋本さん夫妻の胸には一抹の不安がよぎりました。
親心と老後資金の狭間で下した決断
橋本さん夫妻のように、退職金があっても将来への不安を抱える高齢者は少なくありません。日本総合研究所の調査によると、60歳以上の夫婦世帯の約4割が、自身の老後資金について「十分ではない」あるいは「非常に不安がある」と回答しており、特に医療費や介護費といった予期せぬ出費への懸念が高いことが示されています。現役世代の子どもへの援助は、そうした親自身の不安をさらに増幅させる一因ともなりえるでしょう。
とはいえ、長男は40歳、次男は37歳。働き盛りの世代が抱える経済的な負担の大きさは、橋本さんたちも現役時代に痛感してきたことです。息子たちの困窮した様子を目の当たりにすると、救いの手を差し伸べないわけにはいきません。そこで、将来的に夫婦のどちらかに万一のことがあった際には、息子たちが協力して面倒をみることを条件として、孫たちの学費を援助することを決断しました。
学費であれば、国税庁のHPにも贈与税がかからない財産として「夫婦や親子、兄弟姉妹などの扶養義務者から生活費や教育費に充てるために取得した財産で、通常必要と認められるもの」と明記されています。ただし、これは生活費や教育費として、その都度直接支払われるものに限られます。
この援助によって、息子たちの家計の負担も少しは軽減されるだろうと、橋本さん夫妻は考えたのでした。
学費援助では終わらない…底なしの要求にすり減る老後資金
橋本さん夫妻は、自分たちの老後生活のために蓄えてきた資金の一部を、息子たちのために、そして孫たちの学費のために使うことを決意。多少の余裕はあるはずだから大丈夫だろう、そう判断してのことでしたが、現実は……。孫の学費援助は、終わりのみえない金銭的負担の序章に過ぎなかったのです。
孫は合計で4人。仮に、全員が4年制大学に進学し、その学費の半分を援助すると仮定した場合、それだけで約1,000万円もの出費が見込まれます。昨年のお盆には「孫たちへのお小遣いをはずんでほしい」と、例年よりも多額の現金を要求されました。さらに近ごろは、頻繁に帰省してきて、より直接的に金銭を無心しに来るようになったのです。以前はお正月とお盆にしか帰ってこなかったのにもかかわらず……。
しばらくは求められるままに援助を続けていましたが、両親に十分な資産があることを知った息子たちは、次第に生活費の補填まで求めるようになってしまいました。
「老後2,000万円問題」がメディアで大きく取り沙汰されたように、このままでは自分たちの老後資金が2,000万円を割り込んでしまうのではないか。そんな危機感が橋本さん夫妻を襲います。
「あのとき、息子たちに資産の話をしたのは間違いだったのだろうか……」
金の無心に訪れる息子たちの姿に、橋本さん夫妻は心身ともに疲弊していきました。さらに最近では、どちらの息子が多く援助してもらっているかといったことで、息子たちの妻同士が対立し、揉め事を起こしているという話まで耳に入ってきました。
生前贈与・相続を巡る家族間トラブルの実態
こうした親の資産を巡る家族間のトラブルは、残念ながら珍しくありません。ある信託銀行が実施した「相続・贈与に関する意識調査」では、「親からの生前贈与や相続について、家族間で十分に話し合いができていない」と感じている世帯が約半数に上ることが明らかになっています。
また、親がよかれと思って行った生前贈与が、かえってきょうだい間の不公平感を生み、トラブルの火種となるケースも少なくないことが指摘されています。橋本さん夫妻のケースも、まさにそうした家族間の意識のずれが顕在化した例といえるでしょう。
ついには「こんなことになるくらいなら、老後資金なんて必死に貯めなければよかったのかもしれない……」と、ため息がこぼれる橋本さん夫妻。「いずれ資金が底を突いてしまえば、もう無心に来ることもなくなるだろう」と、力なく笑うしかありません。
橋本さん夫妻は、自分たちの資産状況や将来への想いを率直に伝えることで、息子たちの間で起こりうる相続争いを未然に防げると考えていました。しかしながら、今回のケースでは、その願いとは裏腹の結果となってしまったようです。

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