
キャリアを経て迎えた充実の退職。多くの人が思い描く第二の人生において、経済的な余裕だけで満たされるわけではありません。生活環境や家族関係の変化とどう向き合うか……クリアしなければならない問題はさまざまです。
老後は田舎に帰りたい…60歳男性の願い
東京都心、高層ビルから出てきた山田徹さん(60歳・仮名)。中堅メーカーに勤めて38年。順調に出世を重ね、数年前から役員として会社を支えてきました。会社には役員定年制度があり、その年齢は70歳。まだまだ働けましたが、60歳を機に会社を去る決意をしました。何度も慰留されましたあ、徹さんには「夢」があったのです。
「いつか仕事を辞めたら故郷に戻って、静かな環境で暮らしたい……東京の大学に進学し、就職したころから抱いていた思いです」
東京の人混みと騒音に嫌気がさしていたわけではありません。ただ、幼い頃に遊んだ山や川、地域のお祭り、そうした素朴な日常に、ふと帰りたくなる瞬間が、歳を重ねるごとに強くなっていったのです。
故郷は東北のとある小都市。両親が亡くなり、空き家になった実家が残っていました。きちんと管理をまかせているので、すぐに住めるくらいキレイなままです。手先が器用な徹さんは、日曜大工にも自信があります。妻の佳子さん(仮名・58歳)はハンドメイドが趣味です。夫婦でリノベーションをして、好きな空間に仕上げ、それぞれのんびりと趣味を楽しむ――そんな生活が容易に想像できました。
会社を去るとともに受け取った退職金は5,000万円ほど。貯蓄も8,000万円ほどあり、経済的な不安は何一つありません。田舎暮らしに向けて、ひとつもハードルはないように思えました。
「きっと賛成してくれるはず」
ところが、想像は裏切られます。佳子さんは「田舎に行くのはいいと思う。私も大好き。でも住むとなると話は別よ」と何の躊躇もなく言い放ちます。佳子さんは生まれも育ちも東京。電車でどこでも行ける便利さ、24時間営業の店のありがたさを手放すのは難しいと感じていました。
そんな佳子さんから提示されたのは卒婚。「お互い干渉せず、自分のやりたい人生を生きるのもアリじゃない?」とサラリと言います。夫婦の関係を解消するわけではない。ただ一緒には暮らさない——そうした関係性を、恵子さんは提案してきたのです。
厚生労働省『人口動態調査』によると、2023年、年間離婚件数は18万3,808組で、そのうち結婚期間が20年以上のいわゆる熟年離婚は約3万9,812組。離婚件数は年々減ってきているものの、熟年離婚の割合は増えて続けています。
「私の周りには、奥さんに三行半を突き付けられた同年代の知人が何人かいます。それに比べたら、卒婚で済んでよかったのかもしれません」
徹さんは悩んだ末、田舎へ1人で向かうことに決めました。夢を捨てるには、まだ早いと思ったのです。
夢のセカンドライフが始まるも「これが理想だったのか?」
実家に戻った徹さんは、早速リノベーションに取り掛かりました。キッチンの壁を塗り直し、古い畳を剥がし、フローリングを張る……すべて自分でこなします。
「これぞ男の隠れ家ってやつだな」
当初は心も踊りました。しかし、暮らしは想像以上に厳しいものでした。日曜大工は得意でしたが、料理、洗濯、掃夢のセカンドライフスタートも「これが理想だったのか?」除……家事はどれも経験がなかったのです。仕事人間、家のことはすべて佳子さんまかせ。男たるもの台所に立つなんてもってのほか。そんな古い考えを持っていたことも理由のひとつです。
スーパーまでは車で15分ほど。買い出し自体には苦労はありませんが、何を買えばいいのかチンプンカンプン。最初は見よう見まねで自炊を試みましたが、包丁を持つ手が危なっかしいうえ、焦がしたり、生煮えだったり。すぐに「手軽さ」を優先するようになりました。今では、夕食はカップラーメンや、スーパーのお弁当に、健康のためにと買うカット野菜を添えるのが定番に。
「なんのためにここに来たんだろう」
夜、湯気の立つインスタントラーメンの前で、徹さんは何度もそうつぶやきました。
ふと、スマホに目をやると、佳子さんが東京で開いたハンドメイド教室の様子がSNSに投稿されていました。たくさんの生徒に囲まれて、笑顔を浮かべる妻の姿に、少し寂しさを覚えます。「自分がいなくても幸せそうだ」と。
内閣府『令和5年度高齢社会対策総合調査(高齢者の住宅と生活環境に関する調査)』によると、高齢期、 住まいや地域の環境について重視することのトップは「医療や介護サービスなどが受けやすいこと」(男性57.4%、女性65.0%)。「駅や商店街が近く、移動や買い物が便利にできること」、「手すりが取り付けてある、床の段差が取り除かれているなど、 高齢者向けに設計されていること」が続き、「豊かな自然に囲まれていること、または静かであること」は、男女ともに3割程度。生活の利便性や安心・安全を求める人のほうが多数派といえそうです。
夢見た田舎暮らしを実現し、自由を手に入れましたが、その代償として家族は離散状態。妻とは連絡はとっているものの、生活の時間軸がズレてしまったのか話すことはほとんどなく、ラインのやり取りのみ。東京で働く長男と次男とは、ほとんど連絡はありません。非日常の世界にいる父親のことなど、構っていられないのでしょう。しかし、SNSから垣間見ることができるのは、父親がいなくても幸せそうな姿(いや、父親がいないから幸せなのか……)。そんな状況に、何とも言えない寂しさ、孤独感にたびたび襲われます。
カップラーメンを寂しくすすりながら、「こんなはずじゃなかった」とつぶやきます。
[参考資料]
厚生労働省『人口動態調査』
内閣府『令和5年度高齢社会対策総合調査(高齢者の住宅と生活環境に関する調査)』

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