人生の終盤を迎えたとき、これまでの労苦に対する「ご褒美」が待っていると信じたくなるものです。特に退職金という大金を手にした瞬間、長年の我慢から解放された高揚感は、思わぬ方向へと私たちを導くことがあります。40年間堅実な投資で7,000万円の資産を築き上げた若田さん(仮名・72歳)が、なぜ突如として資産の7割を失うことになったのか。その背景には、誰もが陥りうる心理的な罠と、追い詰められたときの判断ミスがありました。この記事では、若田さんの体験から、退職後の資産管理における警鐘と、同じ轍を踏まないための具体的な心構えをFPの青山創星氏が詳しく説明します。

「ご褒美」という甘い誘惑に負けた瞬間、40年の堅実さが崩れ始めた

若田健一さん(72歳・仮名)は、大手メーカーで40年間勤め上げたあと、65歳で定年退職しました。30代から投資を始め、退職時には自分で築いた4,000万円に退職金3,000万円を加えた計7,000万円の資産を持っていました。「無理をせず、長期的な視点で」が彼の投資のモットーでした。

「退職したとき、妻と『これまでの苦労が報われた』と喜び合いましたよ」と若田さんは当時を振り返ります。しかし、その喜びが彼の判断力を鈍らせる始まりでした。

退職直後、若田さんは長年の夢だった海外クルーズに妻と参加。2週間の旅費は300万円を超えました。続いて、子どもたちへの資金援助、自宅のリフォーム、念願の外車の購入と、「ご褒美」の名のもとに支出が膨らんでいきました。

「40年間我慢してきたんだ。これくらい使っても大丈夫だろう」という考えが彼の頭のなかで正当化されていきました。わずか2年で、彼の資産は5,000万円を切るまでに減少していたのです。

「夫婦で月25万円ほどの年金を受け取っていましたが、それだけで支出をカバーできるわけはなく、貯金をどんどん切り崩していたんです」

そう若田さんは説明します。当初は「一時的な出費だから」と気にしていなかった若田さんですが、資産減少の速さに気づき、焦りを感じ始めました。そして、一度気になると頭を離れなくなります。

「少し使いすぎてしまったな……。いざとなったら夫婦で介護付きの老人ホームにも入りたいけれど、足りるだろうか」。資産を減らしてしまった後悔と不安が日に日に大きくなっていったのです。

「失った資金を取り戻したい」…焦りのあまり投げ捨てた自分の投資哲学

「減った分を取り戻さなければ」という思いから、彼は自分の投資哲学を捨て、ハイリスク・ハイリターンの投資へと手を伸ばし始めました。仮想通貨、レバレッジをかけたFX取引、未公開株など、かつての自分なら絶対に手を出さなかった投資先に大金を投じたのです。

「友人から紹介された投資顧問会社の『確実に儲かる』という言葉を信じてしまいました」と若田さんは語ります。その会社が推奨する新興企業の株に800万円を投資しましたが、その企業は半年後に経営破綻。投資金はほぼ全額が水の泡となりました。さらに追い打ちをかけるように、FX取引でも大きな損失を被りました。

一週間で500万円が消えました。目の前が真っ暗になりましたよ」

若田さんの失敗は、長年築いてきた投資哲学を捨て、自分の経験値がない分野に大金を投じたことでした。

「それまではインデックス型の投資信託や優良企業の株を長期保有するスタイルだったのに、焦りのあまり突然ハイリスクな取引に手を出してしまった。投資の知識なら多少はあるからと、自分を過信したんです」

「一攫千金の夢」に溺れた結果―投資家からギャンブラーへの転落

資産の急速な目減りに焦った若田さんは、次第に投資とギャンブルの境界線を越えていきました。「投資」という名のもとに、実質的なギャンブルに手を出し始めたのです。

「競馬は昔から好きでしたが、月に3,000円程度の娯楽でした。それが毎週末、数万円も使うようになっていました」と若田さんは告白します。G1レースでは10万円単位の馬券を購入するようになり、損失が積みあがっていくことになりました。

さらに、スポーツくじ、宝くじ、パチンコなど、様々なギャンブルに手を出すようになりました。「一度に大きく勝てば、これまでの損失を取り戻せる」という考えが頭から離れなくなっていたのです。

「妻に隠れて投資信託を解約し、その資金でギャンブルをしていました」と若田さんは当時を振り返ります。一度、競馬で50万円勝ったことがありましたが、その勝利は彼をさらなる深みへと誘い込むだけでした。

そして、65歳での退職から7年後には、かつて7,000万円あった資産は2,100万円にまで減少していたのです。

妻の涙が人生の転機に―どん底からの再生と新たな人生観の発見

資産の7割を失った現実に、ついに若田さんは立ち止まらざるを得なくなりました。決定的だったのは、妻が偶然、彼の通帳を見つけたことです。

「妻が泣きながら『これからどうやって生きていけばいいの?』と問いかけてきたとき、自分がなにをしてきたのかを初めて客観的に見つめ直すことができました」

この出来事をきっかけに、若田さんはファイナンシャル・プランナーに相談し、残された資産の現状分析と今後の生活設計を徹底的に見直しました。残された2,100万円をいかに守り、年金と合わせてどう安定した老後生活を送るかという現実的な計画を立て始めたのです。

若田さんは、まず全てのギャンブルをきっぱりとやめ、残った資産を安全性の高い投資信託や国債などに分散投資し直しました。また、生活費の見直しも徹底的に行い、支出を削減しました。

「今の資産と年金で老後を乗り切るには、厳しい生活管理が必要です。以前の生活からすれば大幅な縮小ですが、今は『失ったものを数えるより、残ったものに感謝する』という気持ちで生活しています」と若田さんは話します。

退職金という「大金」との向き合い方と行動経済学からの教訓

若田さんの体験から、行動経済学の視点も踏まえて、私たちが学ぶべき重要なポイントは以下の通りです。

心理的会計に注意する 退職金を「特別なお金」「ご褒美のお金」と位置づけず、通常の資産と同じ価値として扱いましょう。大きな金額が入ったら、すぐに使わず「冷却期間」を設けることが有効です。

損失回避バイアスを理解する 資産が減少したときの「取り戻したい」という焦りは、さらなる損失を招く危険性があります。損失を認め、現状から最善の策を考えることが大切です。投資前に「この金額をすべて失っても大丈夫か」と自問することで、無理なリスクを避けられます。

確証バイアスに気をつける 自分の考えを補強する情報だけを集めてしまう傾向があります。投資判断は必ず複数の情報源から検証し、反対意見にも耳を傾けましょう。

現在バイアスを克服する 人は将来より現在の満足を優先しがちです。大きな支出の前に「将来の自分」への影響を具体的にイメージすることで、衝動的な決断を避けられます。

ギャンブラーの誤謬に陥らない 「一度勝ったから流れが変わった」という考えは危険です。各投資やギャンブルは独立した事象であり、過去の結果が将来の確率に影響することはありません。

自己過信を戒める:特に高齢になってからのリスクテイクは、回復の時間が限られています。自分の知識や能力の限界を正直に認め、経験のない分野では慎重に行動しましょう。

サンクコスト効果を理解する 「ここまで投じたお金を無駄にしたくない」という思いで、損失が拡大することがあります。投資判断は「これまでいくら使ったか」ではなく「これからどうなるか」で決めましょう。実践的な防衛策としては、資産の「仕分け」をして生活防衛資金と投資資金を明確に分ける、事前にルールを設定する、信頼できる相談相手を持つ、資産管理の一部を自動化するなどが効果的です。

若田さんは今、残された資産と年金で質素ながらも充実した生活を送っています。「失った7割を悔やむより、残った3割で幸せに生きる方法を考えるようになりました」という彼の言葉には、大きな教訓が込められています。

退職金を手にしたとき、私たちには二つの道があります。一つは若田さんが最初に選んだ「ご褒美」の道、もう一つは冷静に将来を見据えた「資産防衛」の道です。

あなたの退職金は、人生の終盤を豊かに過ごすための大切な資源です。今日から、自分の心の動きを理解し、計画的な資産管理を始めることで、安心と満足に満ちた老後を手に入れましょう。

ファイナンシャルプランナー 青山創星

(※写真はイメージです/PIXTA)