年金を「いつから」「どのように」受け取るか──その選択は、老後の暮らしに大きな影響を与えます。制度の仕組みや金額の増減だけでなく、予期せぬ出来事や家族との関係もまた、人生設計を左右する要素となり得るようです。

繰下げ受給で手にした「月27万円」…安心できる老後のはずだった

東京郊外の戸建てに住む、山田茂さん(仮名・74歳)。定年まで都内の製造業に勤め上げたのち、70歳を超えるまで現場で働き続けました。

「妻を先に亡くして自分しかいないから。何かとお金がかかるんだよ、自分ひとりじゃできないことが多いから」

必要最低限の家事しかできない茂さん。食事はもっぱら外食か、スーパーで総菜を買ってきます。その分、食費がかさむのは仕方がない、と考えています。また、たまにハウスクリーニングを頼むこともあるそうです。

「プロにお願いするのはおすすめだよ。自分ではできないようなところや、気づかないところもキレイにしてくれるから。お金はかかるけど、しっかりと掃除しておけば家も長持ちする(かもしれない)」

年を重ねると、より人の手を借りるようになるかもしれない。そのためにも、できるだけ長く働き、収入を得ておきたいと考えていたといいます。

もうひとつ、茂さんには狙いがありました。それが「年金の繰下げ」。通常、65歳から受け取る老齢年金ですが、66~75歳の間で、受給開始を繰り下げることができます。1ヵ月繰り下げると受取額は0.7%増え、70歳まで繰り下げると42%増、75歳まで繰り下げると84%増となります

昭和27年4月1日以前生まれの場合、繰下げの上限年齢が70歳までとなり、増額率は最大で42%となる

茂さんは、65歳で年金を受け取り始めていたら月19万円だったといいますが、5年ほど受給開始を遅らせたことで、現在の受取額は月27万円ほどになっています。

「月8万円の違いは大きいよ。この先、介護費や医療費が増えても、月27万円あれば安心だよ」

厚生労働省令和5年厚生年金保険・国民年金事業の概況』によると、2023年度、厚生年金保険(第1号)受給権者のうち、繰下げ受給を選択している人は44万5,178人。これは受給権者全体の1.6%にあたります。実際に選択する人は少数派ではありますが、この5年の推移を見ると、2019年の22万1,637人から5年で2倍に増えています。理由はさまざまですが、着実に繰下げ受給を選択する人は増えています。

仕事を辞めて実家に戻ってきた長男。あれから2年…

十分な年金受取額とともに手に入れるはずだった、安心の老後。しかし、それは長男の大輔さん(仮名・45歳)によって一変します。

大輔さんは大学卒業後、就職氷河期の波に飲まれ、正社員の職には就けず、契約社員や派遣社員として職を転々としていました。3年ほど前に正社員としての採用が決まり、親子で喜んでいたのですが……。

「ちょっと仕事、辞めたんだ。上司との折り合いが悪くて、精神的に限界でさ……しばらく実家で休ませてほしい」

半年ほどで仕事を辞め、実家に戻ってきた大輔さん。茂さんは驚きつつも、「まあ、しばらくなら……」と受け入れました。しかし、それから2年以上たつのに、大輔さんが働きに出る気配はありません。バイトでもいいから仕事を探すように伝えても、彼はどこか他人事のように言うのでした。

「でもさ、親父、年金けっこうもらってるだろ? 俺を養うくらい、大丈夫じゃないの?」

そのひと言に、茂さんは言葉を失いました。確かに、年金は月27万円ある。しかし、それは「ひとりで生きる」ために試算し、努力して得た金額です。高齢者向けの健康保険料、介護保険料、突発的な医療費、将来的な介護施設入所の可能性……。それらを考慮したうえで、安心して豊かな老後を過ごしたいと考えた末の選択でした。決して、成人した息子を支えることなど想定していませんでした。

「俺だって、ちゃんとしたいよ。でも生まれるタイミングが悪かったんだ。氷河期世代はつらいんだよ」

茂さんもかつては大輔さんのことを同情していました。時代の犠牲者なのだと。だからこそ、年老いてから子どもたちの世話になってはいけないと頑張ってきたのです。しかし、長男の大輔さんからは、時代のせいにするだけで努力する姿勢を感じることはなく、同情はいつしか焦りに変わっていきました。

「このままでは、私がいなくなったら、大輔はどうやって生きていくのだろう……」

もし65歳で年金を受け取っていたら。毎月の収入は「自分の生活だけ」で精いっぱいで、今のように余裕はなかったでしょう。大輔さんが頼ってきたとしても、自分のことで精一杯と距離を置くことができたかもしれません。

「こんなことになるなら、年金なんて、さっさともらうべきでした」

年金の受取額を増やせる繰下げ受給は、確かに魅力的な制度です。しかし、茂さんのケースは、増えた年金額が予期せぬ「扶養」という形で支出につながってしまった、皮肉な現実を示しています。長引く不況や働き方の変化は、子ども世代の経済的な自立を困難にし、親世代の老後設計に直接的な影響を及ぼします。

年金の繰下げ受給を含め、老後の生活設計において大切なのは、「不確定要素」をいかに織り込むかです。自身の健康問題や、今回のような家族の経済的な依存など、想定外の事態でも起こりうる可能性を冷静に受け止め、対策を考えておく必要があります。制度を賢く利用するためには、金額の計算だけでなく、家族との対話を通じたリスク管理が不可欠といえるでしょう。

[参考資料] 日本年金機構『年金の繰下げ受給』 厚生労働省令和5年厚生年金保険・国民年金事業の概況』

(※写真はイメージです/PIXTA)