
■日本陸軍が甚大な被害を受けていた伝染病
もともと細菌感染を防ぐ防疫給水を担っていた彼らが、なぜ被害を広げる細菌戦に手を染めることになったのか。
戦時中、第十一防疫給水部員として任務に当たっていた吉野秀一郎(よしのしゅういちろう)は、「防疫給水部とは」(『菊の防給』所収)のなかで、日本軍が防疫給水の必要性を認識したきっかけについて、次のように述べている。
「明治27、8年の日清戦争以来、日本陸軍が大陸で戦斗行動を行なった際の日本軍の受けた損害の内訳は、敵弾による戦傷者の数よりも、当時戦地で流行していた伝染病による戦病者の数が常に上廻っており、兵力を維持するためには如何に戦地における防疫が必要であり重要であるかを示していた。
しかも、伝染病による戦病患者の大部分が飲食物による胃腸系の伝染病であった事から、これを解決するためには細菌に汚染されていない無菌、無毒の水を大量に作って第一線の将兵に十分に供給することが必要であった」
■5000人以上の日本兵がコレラで死亡した
日清戦争における伝染病といえば、当時第二軍軍医部長を務めていた森林太郎(もりりんたろう)(鷗外(おうがい))が、軍内で多発した脚気(かっけ)を細菌感染によるものであると主張したことは有名だ。
実際には栄養の偏った陸軍の兵食に原因があった。だが、吉野が言った伝染病はこれではない。日清戦争で多くの日本兵を死に追いやった細菌は、当時満洲で猛威を振るっていたコレラだ。
インドのベンガル地方を発現地とするコレラは代表的な経口感染症のひとつで、コレラ菌に汚染された水や食物をとることで感染する。通常1日以内の潜伏期間で発症し、激しい下痢が続き脱水症状を招く。さらにひどくなると血圧の低下、意識消失、低カリウム血症による痙攣(けいれん)などを引き起こし、最悪の場合死に至る(「コレラ」、国立健康危機管理研究機構ホームページ)。
日本の大陸進出と伝染病との関係について研究した加藤真生(かとうまさき)「日清戦争におけるコレラ流行と防疫問題」(『日本史研究』第六八九号所収)によると、日清戦争の日本軍戦死者数1万3488人のうち、戦病死者はその9割近くに及ぶ1万1894人だった。
さらに、そのなかの5000人以上がコレラで亡くなっていたのだ。感染源は大陸に兵員を送るために調達した輸送船内に溜められた飲用水で、遼東(りょうとう)半島や山東半島、台湾の澎湖(ほうこ)島の港湾で発症者が現れ、まもなく部隊全体に広がった。
■香港ではペストが大流行
さらに、日清戦争開戦と同じ年、香港で雲南省からもたらされた腺(せん)ペストが大流行する。
腺ペストは、ペスト菌を保有するノミによる吸血か、ペストに侵されたネズミなどの動物との接触により傷口や粘膜から感染するヒトペストのひとつだ。潜伏期間は1日から1週間で、発症するとペスト菌が感染部のリンパ節内で増殖し、リンパ節組織の壊死(えし)および腺腫(リンパ腺炎)ができる。腺腫に触れると激痛が走る。
さらに、ペスト菌が肺で増えると肺ペストとなり、飛沫で人から人へ感染し、血流中で増えて全身に回ると敗血症ペストとなる(「ペスト」、国立健康危機管理研究機構ホームページ)。
敗血症は黒色の出血斑が体中に現れることが特徴で、14世紀にユーラシアと北アフリカ両大陸で猛威を振るった「黒死病」は、腺ペストから生じた敗血症ペストだった。
香港に到達したペスト菌は、香港政庁の厳しい検疫をすり抜けて中国人労働者や船舶に乗って中国沿岸部の港湾都市を襲う。そして、1899年、満洲唯一の開港場だった営口(えいこう)で始めて感染者が出る(『感染症の中国史』)。
■だから「防疫給水」が重要視された
さらに、日露戦争後の1910年に北満洲で発生したペストは、鉄道での人々の移動によって南満洲から直隷(ちょくれい)(現在の北京周辺)をへて山東省にまで急速に広がる。
感染拡大を抑えるため、遼東半島の日本租借地を統治していた関東都督府は大連(だいれん)に臨時防疫事務所を設け、清国と連携しながら防疫業務に当たった(「明治四十三四年南満洲「ペスト」流行誌」)。
日露戦争以後、満洲進出を本格化させた日本にとって、細菌から日本兵を守る防疫給水は、ますます重要なものとなったのだ。
それでは、日本軍はどのようにして戦場の日本兵に安全な飲用水を提供したか。前掲「防疫給水部とは」によると、もともと戦地の給水源の調査は陸軍衛生部が行ない、給水の実務一切は陸軍経理部に委任されていた。
そして、戦場の各部隊には陸軍糧秣廠(りょうまつしょう)(陸軍内における食料や軍馬の飼料の調達と製造を担う)からフランネル濾水機が支給された。フランネルとは柔らかくて軽い動物の毛で織られた布のことで、濾過機に取りつけられる。
飲用水を作るには、まず現地の河川や井戸からの水を入れた水槽に沈殿薬の明礬(みょうばん)を加えて泥土が沈むのを待ち、さらし粉(次亜塩素酸カルシウム、または消石灰〔水酸化カルシウム〕)で消毒したうえで、フランネル濾水機で濾過し、最後に煮沸し無菌無毒な飲用水ができる。
■「“石井式”濾水機」が問題を解決した
この複雑な作業を完全にやりこなした場合、きれいな飲用水ができるまでに数時間を要し、駐屯部隊には提供できるが、戦地を転々とする将兵に手渡すのは難しい。
これ以外の方法では、工兵隊員で編成された鑿井(さくせい)隊による井戸掘りがある。しかし、これもはじめに地下水脈を探し当てなければならず、飲用水を手に入れるまでに時間がかかった。
このように、防疫給水は重要性が高まっていたものの、戦闘中か否かによらず日本兵に安全な飲用水を提供するには、いかに手軽にかつ迅速に提供するかが問題だった。これを見事に解決したのが石井式濾水機だ。
石井式濾水機はこれまでの濾過機とどう違うのか。吉野によると石井式濾水機にはフランネルでなく、珪藻土(けいそうど)でできた円筒の濾過管にポンプで汚水を通す。すると、濾過管の側面にある珪藻土特有の微細な穴に細菌が付着し、きれいな水だけが排出される。
これを続けるとその穴が目詰まりをするため、濾水機内にブラシを設置し、これが回転することで濾過管の表面をこすり、穴の目詰まりを解消していく。石井式濾水機は、民間会社が開発した濾水機を石井が軍用に改良したものだったが、このブラシの回転で濾過管の穴の汚れを自動で取り除くという機能は、石井が発明したものだ(「防疫給水部とは」)。
■「細菌戦の報告書」が石井を突き動かした
なお、濾水機で除去できるとされたのは、コレラやチフスのような口から体内に入る消化器系の細菌だった。
石井は戦場で濾水機を持ち運びしやすくするため、器体を鉄製からアルミニウム製にして軽量化し、自動車に搭載できるようにするなど改良を重ねる。その結果、濾水機は1936年に野戦用の濾過機として陸軍に採用されることになった。
ところで、なぜ石井は濾水機の開発に力を注いだのか。京都帝大大学院で細菌学を学んだ石井は、小さな大学研究室ではできない、陸軍軍医の自分にふさわしい大規模な研究に取り組むことを望んだ(『731部隊全史』)。
『死の工場』によると、研究熱心だった石井は、たまたま細菌戦に関する報告書を目にする。これを発表した原田豊(はらだゆたか)二等軍医正は、ジュネーヴ議定書を結ぶ際の会議に出席しており、細菌戦を取り巻く現状が記されていた。このとき、石井は細菌戦が秘める可能性に深く心を動かされたという。
石井は博士学位取得後、1928年からおよそ2年間、ヨーロッパへ視察旅行に出向く。そして、諸外国がジュネーヴ議定書の裏で細菌戦の研究開発に取り組んでいることを知る。議定書は戦場での細菌兵器の使用は禁止しているが、開発することは禁じていない。
石井は、細菌兵器が国際的に使用禁止となったということは、裏を返せばその実用性は高いと判断し、細菌兵器の開発を自身の研究テーマとしたのだ(「日本の生物戦研究・準備(攻撃および防御)」〔「サンダース・レポート」〕、『標的・イシイ』所収)。
■陸軍のエリートたちから支持を得る
帰国した石井の研究を後押ししたひとりに、満洲事変時参謀本部作戦課員だった遠藤三郎(えんどうさぶろう)少佐がいた。
遠藤の自伝『日中十五年戦争と私 国賊・赤の将軍と人はいう』によると、彼は27年に陸軍から派遣されてフランスに留学した際、休暇中に訪れたポーランドのワルシャワで国際医学会議に出席していた石井と偶然出会い、石井から列国が細菌戦を熱心に研究している状況を聞く。これをきっかけに二人の交流は始まる。
満洲事変中の32年1月20日、遠藤のもとへ石井が訪れた。遠藤はその日の日記に、「石井軍医正来りて細菌戦準備の必要を説明、共鳴する点多し。速やかに実現せしむるべく処置す」(『将軍の遺言』)と記した。具体的にこのときどのような説明がなされたのかは不明だが、遠藤を通して石井の細菌兵器の開発構想は参謀本部の支持を得たのである。
遠藤以外に陸軍内で石井を支持したのは、陸軍の中心人物で当時陸軍大臣を務めた荒木貞夫(あらきさだお)大将や参謀本部で陸軍に関する情報収集や調査を担当した第二部長の永田鉄山(ながたてつざん)少将らだ。
永田は陸軍きってのエリートとして知られ、彼のもとに集まる将校らと「統制派」というグループを形成していた。永田は将来の戦争に備え、国家総動員体制を推進していくなかで、中国への攻撃(対支一撃論)とともに、ソ連に対する防衛に関心を向けていた(『秘録 永田鉄山』)。
■濾水機が「盾」で、細菌兵器が「矛」
石井は永田に気に入られ、研究室には永田の胸像を置いていたという(『死の工場』)。
軍医監の小泉親彦(こいずみちかひこ)も石井の研究を強力に支えたひとりだ。前掲『731部隊全史』によると、小泉がかつて教官を務めた陸軍軍医学校は、世界的に軍縮ムードの広がる1920年代に行政整理の対象として存続が危ぶまれた。この状況を打開するには、軍医学校が日本にとって必要不可欠なものであることをアピールしなければならない。
そのように考えているときに起きたのが満洲事変だった。小泉が考えた構想は以下のとおりだ。
軍医学校と連携して石井に細菌兵器を開発する組織を満洲に作らせ、対ソ戦に備えさせる。こうすることにより、軍医学校の存在価値を示す。細菌兵器の開発は違法でないが、あからさまに進めると各国から非難を浴びかねない。そのため、表向きの任務は防疫給水とする。濾水機を開発し、戦場の日本兵を細菌から守ることも軍医学校でなければできない研究だ。
その手始めとして32年、軍医学校内に防疫研究室が開設され、石井らによる細菌研究が始まる。『731部隊全史』で常石は言う。「小泉が石井を使って推進したのが医学兵器開発で、その中身は盾が石井式無菌濾水機で、矛が細菌兵器だった」と。すなわち、濾水機の開発は、細菌兵器の存在を覆う隠れ蓑(みの)だったといえよう。
石井式濾水機で日本兵の細菌感染を防ぐ「盾」の防疫給水と、敵を病に陥れる「矛」の細菌兵器開発。このまったく「矛盾」した目的をはらんでいたのが日本軍の防疫給水の実態だったのだ。
■生きた動物を使って細菌の毒性を強めていった
37年7月、盧溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに日中戦争が勃発すると、七三一部隊は太田澄(おおたあきら)軍医中佐を部隊長とする将兵およそ50人の臨時野戦防疫給水部(太田部隊)を編成して北京方面へ派遣した(『731部隊全史』)。彼らが「盾」として中国戦線で活動を始めた瞬間だ。
一方で、七三一部隊本部では、「矛」である細菌兵器を開発する実験が繰り返された。38年に七三一部隊少年隊員としてペスト菌を研究するペスト班に入った鎌田信雄(かまたのぶお)は、当時をこう振り返る。
石井らが細菌兵器開発でとくに力を注いだのが、感染力と毒性の強い細菌の製造だった。
石井は32年夏に満洲全域で流行したコレラの菌株を手に入れ、それを使って部下の増田知貞軍医や北條圓了軍医らと実験を始める。その結果、細菌の感染力や毒性はそのままで長期保存すると低下していくことがわかった。
そこで彼らは、生きた動物の体内に細菌を入れて発症させて感染力と毒性を増強させる、「体内通過法」(または「人体通過法」)を実行することを決める。
■そして「人体実験」が開始された
この方法には、これまで小型哺乳類のネズミが生体として使われてきた。細菌に侵されたネズミの体内から臓器や血液を取り出し、そこから細菌を抜き取って培養し兵器の原料としたのだ。
これらネズミは、満洲で住民らから提供されたほか、実験用ネズミの一大産地だった埼玉県春日部市から、「ネズミ屋」と呼ばれた仲介業者を通して大量に仕入れる(『ネズミ村と731部隊』)。34年9月、防疫研究室において陸軍一等軍医(大尉相当)の井上隆朝(いのうえたかとも)と小澤清(おざわきよし)がモルモットを使って行なった実験で、5回から10回体内に繰り返し通過させることで、細菌の毒性が2倍から200倍にまで増加することがわかった(「コレラ菌ノ毒性増強ニ関スル基礎的実験」、「陸軍軍医学校防疫研究報告第二部 第二九三号」、『十五年戦争極秘資料集』補巻二三所収)。
しかし、ネズミから得られる細菌に侵された臓器や血液はごくわずかな量しかなく、細菌兵器を製造するには、より多くそれらを手に入れなければならない。いったいどうすればよいか。目をつけたのが、ネズミよりはるかに大きく血液量も多い哺乳類、すなわち人間だ。
松村高夫「731部隊と細菌戦 日本現代史の汚点」(『三田学会雑誌』九一巻二号、1998年7月)によると、関東軍は38年1月26日に発した「特移扱ニ関スル件通牒」にもとづき、日本の植民地支配に抵抗した中国人や朝鮮人、さらにはロシア人やモンゴル人らを次々と拘束し、七三一部隊の特殊監獄に連行した。
■「体内通過法」はまったく意味がなかった
憲兵として「特移扱」に従事していた三尾豊(みおゆたか)によると、捕らえたのは反満抗日分子のほかに、日本人の満洲入植により土地を追われた中国人浮浪者も数多くいた。
そして、彼らは七三一部隊だけでなく、新京にあった一〇〇部隊や満洲医科大学、大連の満鉄衛生研究所にも運ばれたという(江田いづみ「満鉄と植民地医学 七三一部隊への視座」、『満鉄の調査と研究』所収)。
衛生研究所は、38年に満鉄から関東軍に移管され七三一部隊大連支部(出張所とも)となる。これら機関はいずれも細菌研究の設備があり、七三一部隊員もしばしば出入りしていた。
「特移扱」により平房の監獄に送られた者は、囚人のように番号が付けられて「マルタ」と呼ばれ、さまざまな実験に使われ命を落とす。犠牲者は3000人以上といわれる。戦争中であろうとなかろうと、命の保証がなく、最低限の人権すらない不当で非人道的な人体実験は、当然のことながら日本がおかした重大な戦争犯罪のひとつに数えられよう。
なお、常石によるとこの「体内通過法」の効果は現在否定されており、当時正しいとされたのは、実験の際に雑菌が入り、これが実験動物にダメージを与え、細菌の力が高まったと誤認されたのではないかと考えられるという(『731部隊全史』)。
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愛知学院大学文学部歴史学科 准教授
1978年生まれ、愛知県出身。2012年、愛知大学大学院中国研究科博士後期課程修了。博士(中国研究)。専門は中国近現代史、日中戦争史、中国傀儡政権史。著書に『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線』、『後期日中戦争 華北戦線 太平洋戦争下の中国戦線II』、『傀儡政権 日中戦争、対日協力政権史』(いずれも角川新書)、『冀東政権と日中関係』(汲古書院)、『増補新版 通州事件』(志学社選書)などがある。
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