夫の完全リタイアは、夫婦にとって第二の人生のスタートになるタイミング。しかし、長年当たり前とされてきた関係性が、この大きな節目を機に、思わぬ形で綻びを見せることがあります。

旅行パンフレットを広げる能天気な夫に妻は…

「この人は、どこまでも呑気なんだな……」

65歳を迎え、年金支給が始まった夫の高橋浩一さん(仮名・65歳)。60歳で定年を迎えたのち、嘱託社員として働き続け、年金支給とともに完全リタイア。これからは悠々自適な老後を思い描いているようです。

「退職金、2,500万円もらったけど、何も使っていないだろう。俺のリタイア記念で、ゆっくりと旅行にでも行こうじゃないか」

浩一さん、どこか得意気だったとか。厚生労働省令和5年就労条件総合調査』によると、大学・大学院卒の定年退職金は平均2,037万円。平均を大きく超える退職金に、誇らしげになるのも無理のない話です。

そして浩一さんが満面の笑みでハワイ旅行のパンフレットを広げた瞬間、妻の芳子さん(仮名・63歳)の心の中で、何かがプツンと切れました。それは浩一さんのあまりの能天気ぶりに呆れると同時に、長年溜め込んできた鬱憤で堪忍袋の緒が切れた音だったといいます。

37年前に結婚し、すぐに子どもが誕生した高橋さん夫婦。芳子さんは妻として、母として支えてきました。言いたいことを飲み込み、波風を立てないようにと心を配り続けてきた日々。そのすべてを浩一さんは「当たり前」だと思っている。「俺は外で働き、金を稼いでいるのだから当たり前だ」。ときに直接的に声に出すこともありました。この旅行も、きっと「俺が連れて行ってやる」という、いつもの調子なのでしょう。

「このままじゃダメ、この人に、一度本気で思い知らせてやらないと思いました。老後もこの調子だとたまったものではありません」

そう決意した芳子さんは、戸棚の奥にしまっていた「お守り」を取り出しました。数年前に取り寄せ、いつか来るべき日のために記入だけ済ませておいた離婚届です。本気で提出するつもりは、まだありません。でも、夫の目を覚まさせるには、これ以上の「切り札」はないはず――。テーブルに叩きつけるように置いた離婚届と、ハワイのパンフレット。呆然とする浩一さんの顔を見て、芳子さんは、心の中で少しだけほくそ笑んだといいます。

「俺様ルール」は、もはや様式美?

芳子さんの結婚生活は、夫が作り上げた数々の「俺様ルール」と共にありました。今となっては、もはや伝統芸能様式美に近いものがありましたが、毎日演じる身としてはたまったものではありません。

たとえば「朝食の儀」。炊き立てのご飯、焼き魚、具沢山の味噌汁が必須。まるで老舗旅館の女将のように、毎朝完璧な和定食を整えなければ、浩一さんは機嫌を損ねてしまいます。たまに寝坊してパンでも出そうものなら、「俺は日本人だ!」と、よく分からない理由で却下されることもありました。

リビングでの「チャンネル権争い」は、争いにさえなりませんでした。芳子さんが楽しみにしているドラマの時間も、夫が帰宅すれば問答無用で野球中継へ。いつしか芳子さんは、リアルタイムでテレビを見ることを諦め、深夜に録画をこっそり見るのがささやかな楽しみになっていました。

「主婦が昼間から遊び歩くな」と言われ、友人とのお茶の約束もキャンセルしたことは数えきれず。洗濯物の干し方が悪いと、まるで新人教育のように指導が入ることもしばしば。一つひとつは小さなことかもしれません。しかし、その小さな我慢の積み重ねが、気づけば富士山よりも高く積もっていたのです。

そして、夫の65歳での完全リタイア。それは、芳子さんにとって最後通告でした。

「この俺様ルールが、朝から晩まで、365日続く、死ぬまで続く……地獄でした」

想像しただけで、どっと疲れが押し寄せます。自由になるはずの老後が、浩一さんのルールに縛られた延長戦になるなんて、冗談じゃありません。だから、芳子さんは「ハワイ旅行」という浮かれたイベントを逆手にとって気づかせようと考えたのだとか。娘の聡美さんに電話で一部始終を報告すると、「お母さん、ついにやったね。グッジョブ!」と明るい声が帰ってきたといいます。

株式会社LIFULL senior/LIFULL 介護が行った調査によると、パートナーとの老後の暮らしについて、76.8%が「できるだけ二人で長く暮らしたい」と回答。一方で、4.6%は「パートナー関係を解消したい」と回答しています。割合でいうと20組に1組……決して自分は関係ない、と余裕でいられる結果ではありません。

最強の味方を得た芳子さんは臨戦態勢。呆然自失の夫をリビングに残し、芳子さんは買い物へ出かけました。その日の夕食は浩一さんが苦手なクリームシチュー、そして食後のデザートには、自分へのご褒美としてデパ地下の高級フルーツタルトを買って帰ったそうです。

気になるハワイ旅行のその後について、芳子さんはいたずらっぽく笑います。

「まずは夫が結婚生活を振り返って、37年分の『ありがとう』を言えるかどうか。それができたら、旅行のパンフレットくらいは、もう一度見てあげてもいいかもしれませんわね」

離婚届は夫婦関係を再構築するための「起死回生の一手」。この脅しに対して、浩一さんの態度も180度変わったそうです。リタイアした夫とのセカンドライフ、今のところ、順調な滑り出しだといいます。

[参考資料]

厚生労働省令和5年就労条件総合調査』

株式会社LIFULL senior/LIFULL 介護『11月22日は「いい夫婦の日」!LIFULL seniorが「パートナーとの老後生活に向けた意識調査」を実施』

(※写真はイメージです/PIXTA)