
誰もが「これなら安心」と思う老後設計。安定した職業、十分な退職金と貯蓄、そして夫婦で支え合える年金生活。しかし、そんな理想のかたちが、ある日突然、崩れることがあります。
国家公務員…盤石のはずだった老後設計
大学を卒業後、国家公務員として働いてきた鈴木誠一さん(仮名・65歳)。民間企業ではなく公務員を選んだのは、「安心・安定」を好んだからです。
「父親が公務員で、勧められたのも大きかったですね。30代でバブルが崩壊し、40代前には金融不況がありました。民間企業に就職した同期は大変そうでしたが、そのようなときも私の生活は安定していました。国と国民のために働いているというやりがいもあり、最良の選択をしたと考えています」
そんな誠一さんは60歳でキャリアに終止符を打ち、貯蓄を取り崩しながら年金を受け取れるようになるまで暮らす道を選択しました。その決断を後押ししたのは、2,500万円の退職金と、若い頃からコツコツと貯めてきた2,000万円を超える貯蓄でした。
内閣官房『退職手当の支給状況』によると、2023年度に定年を迎えた国家公務員(常勤職員)は7,835人です。そのうち行政職俸給表(一)適用者は1,473人で、退職金の平均額は2,122.1万円でした。誠一さんが受け取った退職金は、この平均額を上回ります。
【勤続年数別「行政職俸給表(一)」適用者の定年退職金額】
勤続10~14年…675.4万円
勤続20~24年…1,504.8万円
勤続30~34年…2,075.0万円
勤続35~39年…2,209.9万円
勤続40年以上…2,167.4万円
※勤続15~19年、25~29年は記載なし
総務省統計局『家計調査報告(家計収支編)2024年平均』によると、高齢無職世帯(世帯主が65歳以上)の消費支出は、2人以上の世帯で月額25万6,521円です。この金額を定年後の夫婦2人の生活費と仮定すると、1年間で約308万円、5年間で1,540万円になります。年金受給開始までの5年間、貯蓄を取り崩して生活したとしても、鈴木さん夫婦には3,000万円弱の貯蓄が残る計算です。
65歳になった誠一さんが受け取る年金は月額18万円です。1歳年下の妻・良子さん(仮名)は、月額13万円の年金を受け取る予定です。夫婦の年金は合わせて月額31万円になります。年金だけで十分に生活でき、万一の事態にも対応できる蓄えもあります。老後のシミュレーションは万全のはずでした。
何一つ不安のない、完璧なセカンドライフの幕開けのはずでした。しかし、世の中に完璧はないと、思い知らされることになります。
平穏な日々に訪れた2つの災難
年金生活が始まって1年が経った頃、妻の良子さんが、たびたび眩暈や倦怠感を訴えるようになりました。「年のせいかしら」と笑っていた良子さんですが、症状は次第に悪化していきます。心配した誠一さんが付き添い、大学病院で精密検査を受けると、医師から治療が難しい自己免疫疾患系の難病だと告げられました。
医師の話では、完治は難しいものの、進行を抑制し症状を緩和させる効果が期待できる治療法があるといいます。しかしそれは保険適用外の治療で、月々30万円以上の費用がかかるとのことでした。
高額な費用に、誠一さんは一瞬言葉を失いました。しかし、迷いはありませんでした。気丈に振る舞い、不安がる良子さんを「大丈夫だ。お金のことは心配するな。そのために今まで頑張ってきたんだから」と力強く励ましました。
治療を開始すると、良子さんの症状は一進一退を繰り返しながらも、改善の方向へと向かっていきました。その一方で、貯蓄は着実に減り続けていきます。通帳に記帳するたびに数百万円単位で減っていく数字を目の当たりにし、「このままでは、あと何年もつだろうか……」という恐怖が誠一さんの胸に広がりました。
そんなとき、旧友から「公務員退職者向けの資産運用セミナーがあるんだが、一緒にどうだ?」と誘われました。普段の誠一さんなら「怪しい」と一蹴したはずです。しかし、将来への不安からその誘いに乗ってしまいました。セミナー会場では「独自のAIが市場を分析し、海外の優良不動産に投資する」「元本は保証され、年利10%の配当が期待できる」といった甘い言葉が並びます。周りの参加者が熱心に質問し、次々と契約していく姿に、誠一さんの心は大きく揺らぎました。
(1,000万円を投資すれば、年間100万円。月々8万円以上の収入増だ。これなら治療費の足しになるじゃないか)
冷静さを失っていた誠一さんは、退職金から1,000万円を投資する契約書にサインしてしまいました。最初の配当金が振り込まれるはずの3ヵ月後、誠一さんは期待を胸に銀行へ向かいましたが、通帳に記帳されたのは公共料金の引き落とし履歴だけでした。「何かの間違いだろう」。そう思い、セミナーの運営会社に電話をかけると、「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」という無機質な音声が流れるだけです。紹介者の旧友も「騙された!」と騒いでいました。
ここで初めて、自分が巧妙な詐欺に遭ったのだと悟った誠一さん。頭が真っ白になり、その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえました。「値上がり確実」「絶対に損はしない」「元本は保証する」などと勧誘し、手持ちのお金を増やしたいという射幸心につけ込むのが利殖商法の手口です。まさに、誠一さんが陥ったケース。警察庁によると、利殖勧誘事犯の検挙事件数は、令和6年(2024年)で49件です。これは氷山の一角にすぎず、検挙されたとしても被害金が戻ってくる可能性は低いとされています。
「もう、終わりだ……」
妻を救いたい一心で打った起死回生の一手は、残された老後資金のほぼ半分を失う、最悪の一手となってしまいました。その後、鈴木さん夫婦の現状は子どもたちも知るところとなり、現在は家族全員で良子さんの治療を支えているといいます。
[参考資料]
内閣官房『退職手当の支給状況』
総務省統計局『家計調査報告(家計収支編)2024年平均』

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