
「夫婦で旅行三昧、悠々自適な老後」が一転、定年からわずか3年で離婚、退職金も年金も分割され、小さなアパート暮らしに...。今回は、そんな"転落シニア"となった元会社員男性の事例をご紹介します。長年の勤務に満足していた男性が、なぜ熟年離婚に至り、生活基盤を失うことになったのか。その背景には、見過ごされがちな「夫婦の感情的すれ違い」と、「離婚後の思わぬ経済リスク」が潜んでいました。FPの三原由紀氏が解説します。
悠々自適なはずの定年後…妻から突然の「離婚通告」
「定年後は、妻とゆっくり温泉巡りでもしながら暮らしたいと思っていたんです」
そう語るのは、都内のメーカーを63歳で定年退職した山田正雄さん(仮名・66歳)。再雇用契約を延長せず、退職金2,000万円と、夫婦で月額25万円の年金(正雄さん18万円、妻7万円)、そして貯蓄1,500万円を原資に、妻と二人で“ゆとりのセカンドライフ”を過ごす予定でした。都内近郊の持ち家に住み、子どもはすでに独立。これ以上ない好条件に見えました。
しかし、退職から1年後、突如として妻の恵子さん(仮名・64歳)から離婚を申し出られます。
「“このままずっと一緒にいるのは耐えられない”と、離婚届を突き付けられたんです。まさか、ですよ」
正雄さんに、いわゆる浮気やDVといった決定的な問題はありませんでした。ただ、恵子さんに言わせれば「定年後にずっと家にいて、ジムには行くくせに、家の中では動きもしないし指示ばかり」「私の時間や居場所が完全に奪われて、息が詰まりそうだった」とのこと。
38年間の結婚生活で、正雄さんは「稼いでくる夫」、恵子さんは「家庭を支える妻」という役割分担が明確でした。しかし定年とともに正雄さんが一日中家にいるようになると、恵子さんにとって家は「自分だけの安らぎの場」ではなくなってしまったのです。
正雄さんは「俺だって疲れているんだから、家でゆっくりさせてくれてもいいじゃないか」と反論しましたが、時すでに遅し。長年蓄積していた恵子さんの不満が、定年を機に一気に爆発してしまいました。
年金も退職金も分割…「離婚でここまで失うとは」
「家も手放しましたし、退職金も1,000万円持っていかれました。年金まで…ですよ?まさかここまで取られるとは思いませんでした」
離婚の財産分与により、2,000万円の退職金はほぼ半分を恵子さんに分ける形に。さらに「年金の分割制度」により、正雄さんの厚生年金も恵子さんへ一部が移転されました。
年金分割とは、離婚時に夫婦が結婚していた期間に納めた厚生年金の報酬比例部分を分け合う制度です。特に2008年以降は、会社員・公務員の配偶者が扶養内だった期間について、相手の合意なしで最大2分の1まで分割請求できる「3号分割制度」が導入され、分割請求のハードルが大幅に下がりました。
ただし、対象はあくまで“婚姻期間中に形成された年金”であり、国民年金(基礎年金)は分割対象外です。
正雄さんの場合、月額18万円だった年金(老齢厚生年金11万円+老齢基礎年金7万円)が、分割後は約15万円に減額。一方で恵子さんは、自身の基礎年金7万円に加え、分割された厚生年金約3万円を受給できるようになりました。
財産分与で自宅を恵子さんに譲渡したため、手元には現金約2,300万円(退職金残額1,000万円+貯蓄1,500万円-離婚関連費用約200万円)が残りました。離婚関連費用には、弁護士費用、不動産名義変更費用、引越し費用などが含まれます。「それだけあれば十分」と思われるかもしれませんが、都内での一人暮らしとなった正雄さんにとって、家賃などの固定費増加と昨今の物価高が直撃します。
「旅行どころか、いまは家賃8万円のワンルームアパート暮らし。駐車場代も月10,000円。ガソリン代や維持費を考えると、愛車も手放すしかないかもしれません」
急増する熟年離婚、その経済的リスクとは
熟年離婚は、いまや他人事ではありません。厚生労働省の人口動態統計によると、同居期間20年以上の熟年離婚は年々増加傾向にあり、2022年には約3万9,000件と過去最高を記録しました。特に同居期間35年以上の離婚件数は高止まりしていることが示されています。
本来、定年は“第2の人生のスタート”であり、夫婦の関係を再構築するチャンスでもあるはず。しかし、夫婦で向き合う準備が整っていなければ、リタイア後の同居時間はストレスの引き金にもなり得るのです。
さらに、離婚による経済的ダメージは、多くの男性が想像する以上に深刻です。特に以下3つの制度的リスクを理解していない方が多く見受けられます。
・年金分割制度を事前に理解しておく 「自分が納めた年金は自分のもの」という認識は大きな誤解です。結婚期間中の厚生年金は「夫婦で築いた共有財産」とみなされ、最大で半分まで分割される可能性があります。
・退職金・貯蓄の財産分与 名義に関係なく、婚姻期間中に形成された資産は基本的に分割対象となります。「俺が稼いだ金だ」という主張は法的には通用しません。
・持ち家の処理 共有名義でなくても、婚姻期間中に取得した不動産は財産分与の対象です。売却して現金化するか、一方が住み続ける代わりに他の財産で調整するかの選択を迫られます。
正雄さんのケースを振り返ると、月15万円の年金収入で都内アパート暮らしでは、現金2,300万円も25年程度で底をつく計算になります。「まさか66歳になって、こんな生活になるとは…」と肩を落とす正雄さんの姿は、決して特殊な事例ではないのです。
定年後の「夫婦の危機」に備える3つの心得
定年を控えた方、すでにリタイア生活を始めた方には、ぜひ以下3点を心がけていただきたいと思います。
1. 夫婦での対話を増やす:一方的な理想の押し付けではなく、互いの望むライフスタイルを確認し合いましょう。
2. 制度的リスクを理解する:年金分割や財産分与の仕組みを事前に学んでおくことで、万一の場合の経済的ダメージを最小限に抑えられます。
3. セカンドライフの設計を共同で行う:定年後の生活は「夫の引退後の過ごし方」ではなく「夫婦の新たな人生設計」として捉えることが重要です。
「俺が一生懸命働いてきたのに…なぜこんなことに」と嘆く正雄さん。しかし、長年見過ごしてきた"夫婦間のすれ違い"と、"制度的リスクへの理解不足"が、彼の老後を想定外の方向に導いてしまいました。
定年は"終わり"ではなく、"新たな関係性を築く始まり"でもあります。今一度、「夫婦の在り方」と「お金の制度」を見つめ直してみてはいかがでしょうか。
「もし時間を戻せるなら、定年前にちゃんと話し合っておくべきだった」と、正雄さんは静かに語ります。
参考:令和4年(2022)人口動態統計月報年計(概数)の概況 https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai22/index.html三原 由紀 プレ定年専門FP®

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